最後の楽園・トカラモネス


 再就職への道は、和田が想像していたよりも厳しかった。
「10年前だったら即座に採用するところだったんだけどね・・・」
 採用担当の若い男はいかにも残念そうに言いながら額の汗をぬぐった。10月に入ったとはいえ、真夏のように暑い一日だった。年代物のクーラーが事務所の隅で大きな音を立てていた。
「やはり・・・年齢がひっかかりますか?」
「それはあるけど、和田さん田島建設でしょ?うちも同じ建設業界には違いないけど、内勤の仕事と違って、現場で使える即戦力の人材を探してるんだよね」
「ええ・・・しかし、私も現場での経験なら若い頃ずいぶん積みました」
 和田は最後に残された望みを断ち切るまいと、現場回りをしていた当時のことを必死に男にアピールしてみせた。父と息子ほどにも年齢の離れた二人の間には時の流れが作り出す溝があり、それを埋めようともがけばもがくほど、二人の距離は絶望的に遠ざかっていくような気がした。一方は今という時代に生き、もう一方がその時代に追いつこうとする。レースの結果は始まる前から明らかだった。
「和田さん、それって30年も前の話でしょ?時代が違うんだな、あの頃とは。現場監督ってビル一つ作って終わりってわけじゃないんだよ。工事を始める前には近隣住民や、時には地元の暴力団にも挨拶に行かなくちゃならない。それでないと事が円滑に運ばないからね。そういう経験、和田さんの時代にはないでしょ?」
 確かになかった。好景気の波に乗り、次々に町の風景を塗り変えていった時代だった。今よりもずっと人と人との距離が近かったこともある。お互いに支え合いながら新しい町を作り、その先の時代へと邁進する仲間意識のようなものがあった。
 時は推移し、バブル期の土地狂乱を経て、古くからの住人に代わり、次々と新しい人々が移り住む。地域としての連帯感は薄れ、一方で権利や主張がぶつかり合う時代となった。
 頭では理解しているつもりでも、日頃から近隣との接触の少ない和田には、その温度感が現実のものとして感じられていなかったのかもしれない。
 和田は男のその言葉を汐に立ちあがった。
「どうも私も人間が古いもので・・・お忙しい中お時間を割いていただきありがとうございました」
 和田が深々と頭を下げると、
「和田さん、あまり気を落とさないでください。仕事はそのうち見つかりますよ」
 男はそう言って和田の履歴書を封筒に戻し、丁寧に頭を下げた。

 早稲田通りをJRの駅に向かって歩きながら、和田は急に老けたような気持ちになった。求人の多くは年齢の上限が30代となっていて、たまにそれを越えるものがあっても、和田より若い者がいれば彼らを採用するのは目に見えていた。
 電車が来るのを待つ間、和田は何気なくホームの掲示板を眺めた。そこには季節柄、紅葉狩りツアーのポスターが美しい写真とともに並んでいた。
 退職金やこれまでに貯えてきた貯金を考えれば、この年になってわざわざ仕事を探す必要もなかったのかもしれない。60才になれば年金も支給される。贅沢さえしなければ、それほどお金に困る老後ではないだろう。
 ところがいざ会社を辞め、どこに行くあてもなく自宅でテレビを見て過ごしていると、ときどき言いようのない不安感が和田を襲うことがあった。それは世間から遠ざかり、社会から必要とされなくなる恐怖。その恐怖感は和田の思考を麻痺させ、この瞬間一体誰のために、何の目的で生きているのかさえ曖昧になった。
 その恐怖感を払拭しようと、若い頃に読んだ本を押し入れの奥から取り出して開いてみるが、文字ばかりが頭の中を踊り、物語は一向に意味をなさなかった。次第にテレビにも飽き始めるようになると、ぼんやり窓の外に広がる空を見て過ごすことが多くなった。
 
 『最後の楽園・トカラモネス』
 紅葉狩りの広告に追いやられるようにして、掲示板の隅に貼られていたそのポスターが和田の目に留まった。趣味で旅行番組を見ることの多かった和田だったが、トカラモネスという国の名前はこれまで聞いたことがなかった。
 『お一人様よりご参加が可能です』と書かれたそのすぐ下に、旅行会社の名前と問い合わせ先の電話番号が記されていた。特に興味があったわけではなかったが、「最後の楽園」、そして未知の「トカラモネス」という名前が何となく気になり、和田はその電話番号をメモ帳に書き写した。
 空いた車内の座席に座り目を閉じると、たった今見たポスターの文字が浮かび上がってきた。
『最後の楽園・トカラモネス』
 どうやらここしか残されていないようだ、和田は思った。目を開けると、窓の外にはどんよりと曇った空がどこまでも続いていた。