楽園の入り口 

 イスタンブールを予定より30分ほど遅れて飛び立ったパラダイス・エアー8便は進路を西に取り、トカラモネスの首都ホープ・シティーを目指す。定員300人乗りのエアバス機の座席は、これからバカンスを楽しむ色とりどりの服を着た欧米観光客でほぼ埋めつくされていた。
 イスタンブールを飛び立って1時間ほどたった頃、機長がアナウンスでトカラモネスの領空に入ったことを告げた。現地の気温は29℃、天候は晴れ。「青い海と冷たいビールにあと1時間で到着します」との機長のジョークに、機内の所々から笑いと拍手が起こった。
 和田の隣に座る肌の浅黒い女性は、ユーモアあふれる機長のアナウンスにも眉一つ動かすことなく、厳しい表情で手に持った英語の本を読んでいた。現地の女性だろうか。ラフな服装の乗客が多い中で、彼女のフォーマルな服装は際立っており、どことなく他人を寄せつけない冷たい印象を受けた。
「トカラモネスの方ですか?」
 和田が英語で声をかけると、彼女は意外なほど明るい笑顔で「ええ」と答えた。和田が何か言葉を続けようと考えていると、彼女は「もう少しで着きますね」と、嬉しいとも残念とも判別のつかない口調で言った。
 およそ2時間のフライトで交わされた会話はそれだけだった。
 飛行機が降下を始めると、機内の興奮はさらに高まった。耳を澄ますと、期待に胸を膨らませた乗客の心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。和田は窓に顔を押し付けるようにして眼下に広がる海の反射に目をやった。
 スチュワーデスは籠に入れたジャスミンのブーケを乗客一人一人に手渡していく。機内があっという間に甘い花の香りで満たされた。

 きっちりネクタイを結んだ入国審査官は無表情のままパスポートにスタンプを押していく。
 旅の目的は?滞在日数は?型通りの質問に和田は英語で答えた。審査官はコンピューターに何か入力すると入国のスタンプを押し、「次の方」と言いながらパスポートを突き返した。その応対はどことなく日本の役所を思わせる、能率的だが温かみの欠けるものだった。
 入国手続きを済ませ機内に預けた荷物を受け取ると、和田は南国の太陽に誘われるように建物の外に出た。空は抜けるように青く、風に運ばれてかすかに潮の匂いがする。景観を守るためなのだろう、人口300万人の首都には高いビルが見当たらなかった。空港の建物も周囲の風景との調和を考え、ふんだんに木を使用した造りになっている。
 タクシーに乗り込み、日本で予約してあった米系チェーンのホテル名を告げた。運転手は和田の言葉に軽く頷いただけで荒々しく車を発進させた。機内で会った女性に続いてこれで二人目。言葉や習慣の異なる国ではあるが、彼らがよそ者に対して高い壁を築いているのを和田は感じた。
 
 和田が日本で予約したホテルはダウンタウンのほぼ中心に位置する緑に囲まれたホテルだった。前庭には色鮮やかなブーゲンビリアの花が咲き誇り、正面玄関の小さな噴水池が涼を演出していた。
 フロントデスクの白人の女性は笑顔で和田を出迎えた。それは性格の朗らかさからくるものか商業的スマイルなのか判別がつかない。『最後の楽園』に来て思いがけず厳しい表情に出くわした和田はいささか懐疑的になっていた。
「ミスター・ワダ、3日間ご滞在ですね」
「はい、そうです」
 女性は慣れた手つきでキーボードを叩くと、ごゆっくりお過ごしくださいと部屋の鍵を手渡した。
 ポーターが多めのチップに機嫌よく部屋を出ると、ここまでの旅の疲れが一気に和田の体を襲った。キングサイズのベッドに大の字で横たわり、目をつぶってここまでの道のりを振り返ってみた。
 何かが和田の予想していたものと微妙に食い違っていた。頑なな表情の女性、無愛想な入国審査官、運転の乱暴なタクシー運転手。そのどれもが和田の思い描いていた楽園の像とは結びつかないものばかりだった。
 これじゃまるで日本だな、と和田は思った。それは軽い失望であるとともに、トカラモネスへの興味をますます引きたてた。
 テレビでは40代と思しき若い大統領が国民に向け演説を行っている。公用語であるムブリエル語は耳に優しく、窓から吹き込む微かな風と交じり合って、和田を深い眠りへと誘った。意識が薄れていくなかで、これほど気持ちのいい疲労感はいつ以来だろうかと考えたが、その答えが出る前に和田は静かな寝息を立てていた。

 もうすぐ11月が終わろうとしていた。