ケンジの手紙
和田がホープ・シティーのホテルで寝息を立てている頃、ナツミはイスタンブールへ向かうトルコ航空の機内で地図を広げていた。トルコという国のイメージを頭の中に描こうとしたが何も浮かび上がってこなかった。イスタンブール、絨毯、そしてイスラム教。トルコと聞いて思い浮かぶのはどれも単語であり、ナツミの中で映像として結びつかなかった。
横で眠る進藤の隣ではアラブ系の男性が日本語の週刊誌をめくっている。男は日本語が読めるのか読めないのか、早いスピードでページをめくっていく。
ケンジの母から電話があったのはわずか1週間前のことだ。そのときのことを思い出すと、何年も前の出来事かのように記憶がぼやけている。ショックというのは違うと思う。ケンジが旅に出るときもう二度と会えないのではという予感があった。それはケンジの何気ない一言であったり、仕草であったり、そういうものの中に消えていく者の匂いを感じ取ったからかもしれない。
ナツミがケンジと知り合ってから1年以上がたつ。二人は友人としては親密な関係だったが、恋人としての関係には発展していなかった。一度ナツミの方からケンジの手を握ったとき、ケンジはちょっと驚いたような顔でそっと手を離したことがある。そのときナツミの手に残ったケンジの湿った手の感触は、今でもはっきりと思い出すことができる。
「ケンジは女に興味ないの?」
そうナツミが冗談で聞いたとき、ケンジは困った顔になって言った。
「興味あるよ、でもシャイだから」
そう言ってすぐに別の話題に変えたとき、ナツミは初めてケンジは女に興味がないのだと感じた。
男性的な性格のケンジに、どことなく丸みを帯びた女性的な部分があることに気付き始めたのはその頃からだ。何度か遊びに行ったケンジの部屋の窓際には、いつも花が置かれていた。
「部屋に植物があると落ち着くんだ」
ケンジはそう言って、いたずらがばれた時の子供のようにはにかんだ。
日に日にケンジのことを好きになりつつあった。ナツミがケンジの内面に深く入り込もうとすると、どこかで頑丈な扉に閉ざされる。それは冷たさとは違う、自分自身を守るための砦のように感じられた。
この人は何をそんなに守ろうとしているのだろう?ナツミは何度も思ったことがある。それを直接ケンジに聞いてみたい衝動を抑えてきた。もしそれを聞いたら二人の関係がすべて終わってしまうのではないかと怖かったからだ。
あれから6ヶ月。ケンジが陸路で移動したユーラシアの上空を、ナツミは進藤とともにイスタンブールを目指している。この先にあるものが何であっても、とナツミは思った。何であっても、行かなくてはならない。ケンジのためじゃない、自分のためだ。
窓のシェイドを少し上げると太陽の光が射し込んできた。暗闇に慣れた目から一瞬視界が遠ざかっていく。何も見えない。
ナツミは光と暗闇の分岐点に立っていた。
海岸までやって来ると街の喧騒が波音に飲み込まれた。西の空に沈みつつある太陽は海の向こうに赤い幕を下ろし、静かな一日の終わりを告げていた。和田は熱の残る砂浜に腰を下ろし海を眺めた。
トカラモネスにやって来て3日がたった。これといって観光らしいこともせず、ただぼんやりと街のなかを歩き回るうちに時間は過ぎていった。日本を出る前に感じたトカラモネスへの幻想はひとつひとつ切り崩されていった。
街中で大声をあげて喧嘩する女がいた。二人を取り囲む群衆の目には「またか」といった諦めと、二人のやりとりを面白がる狡猾な好奇心が浮かんでいた。一方の女がもう一方の髪を鷲づかみにし地面に引き倒す。地面に叩きつけられた女は苦痛の表情を浮かべながら、近くにあったコンクリート片を相手に投げつける。コンクリートが女の右頬に命中したのを見て、群衆が歓喜の声をあげる。和田はいたたまれなくなってそっと人の輪から抜け出した。
自由と多様性を掲げる国には似つかわしくない、警官の姿が街の至るところで目についた。腰から重そうな拳銃をぶらさげ、サングラスに隠された目は行き交う人々を注意深く監視していた。
和田が喧嘩の現場から立ち去るとすぐにパトカーが数台駆けつけ、警官たちは警棒を振り回しながら群衆を蹴散らした。それに続く悲鳴は少年のものだった。何か気に障ることを言ったのか、14〜5才の少年を取り囲んで警官たちが警棒を振り上げている。
止めなければ。咄嗟に思ったが、足がすくんで動けない。壁に手をついて尋問されている二人の女の横で、少年が頭から血を流して横たわっている。それを遠巻きに見る人々の目には感情がない。頭のおかしな老人が前に進み出て、「トカラモネスに栄光あれ!」と叫ぶ。ボロ布同然のシャツからは、折れてしまいそうなほど細い腕が伸びている。
和田の体が小刻みに震えていた。恐怖と怒り。入り混じった二つの感情に、なすすべもなく立ちつくす自分は卑怯だと思った。目の前の光景に、これまで出会ったトカラモネスの人々の表情が重なった。機内で本を読む女性、入国審査官、運転の荒いタクシー運転手。彼らの顔にはここにいる群衆同様、絶対的に表情が欠けていた。
「いつものことですよ」
突然背後から日本語で話しかけられ、和田は振り返った。20代前半とおぼしき青年はヨレヨレのTシャツを着て少年の方を見つめている。
「誰も止めないんですか?」
「警察がやっていることを誰が止めるんですか?」
「でもこれは明らかに犯罪だ」
「この国では警察の力が強いんです。一般の市民に出来ることはなるべく彼らと関わらないことぐらいです」
「それにしてもひどい」
「そのうち慣れますよ」
青年はソルと名乗った。
「メキシコから来た奴にお前は太陽のような奴だって言われたんです。太陽はスペイン語でソル。それ以来ずっとソルを使っています」
「日本を出てどのくらい?」
「半年・・・もっとかな。最近はあまり旅の期間を考えなくなったから」
そう答えるソルの顔にも表情がなかった。
「最後の楽園と聞いて期待していたんだけど、こんなものを見せられるとは思ってもみなかった」
「もっとすごいことがありますよ。和田さんもそのうち嫌でもそんな場面に出会うと思います」
そう言ってソルは人混みの中へと消えて行った。その後ろ姿には現実感がない。まるでソルだけが別の重力のなかに漂っているように見える。
和田が振り返ると二人の女はすでに警察に連行されたあとだった。全身の毛が抜けた野良犬が少年の頭から流れる血をなめていた。
イスタンブールに到着した翌日、ナツミと進藤はホテルから車で15分ほどの日本領事館を訪れた。応対に出た倉田と名乗る女性はビニール袋に入れたケンジの所持品を取り出しながら、ケンジが失踪した状況を二人に話した。
「そのホテルには二週間ほど滞在していたようです。フロントの人の話によるとトカラモネスについて何度か尋ねていたそうです」
「トカラモネス?」
ナツミが意外な表情で聞いた。
「ええ。トルコからですとフェリーが出ています」
「そこに行ったということは考えられますか?」
「私どももその可能性を考えてトカラモネスの出入国記録を調べてもらいましたが、中山ケンジという名前は見当たりませんでした。ただ・・・」
「ただ?」
「これはあくまでも可能性ですが、トルコ人ならトカラモネス入国に際してパスポート等の書類が必要ありません。原則的には自由に出入国出来るため、出入国の記録が残りません」
「ケンジがトルコ人に紛れて入国したということですが?」
「そういうことも考えられます。ただしトカラモネスからトルコに入国する際には身分を証明する書類が必要になりますから、もしトルコに再入国していたとしたらそこで記録が残っているはずです」
「つまりケンジはトカラモネスに入国して、そのままそこに滞在していると?」
「先ほども申し上げた通り、記録のない中ではあくまでも推測にすぎません。ここ数年トカラモネスを訪れて、パスポートがないためトルコに再入国する際、足止めされるケースは多くあります」
それまで黙って聞いていた進藤が初めて口を開いた。
「ナツミ、トカラモネスに行ってみよう」
進藤の提案を聞いて倉田が遮った。
「それはやめておいた方がいいかもしれません」
「なぜですか?」
「これはまだ正式に発表されていませんが、近々日本の外務省からトカラモネスへの渡航自粛勧告が出されます」
「ジシュクカンコク?」
「ええ。その国の政治・治安状況を考慮した上で日本人渡航者向けに出される危険情報です。ここ数ヶ月トカラモネスの政治情勢は不安定で、今後これが急速に悪化するおそれがあります」
「現地の日本大使館は助けてくれないのか?」
「トカラモネスに日本の大使館はありません。現在のところトルコ大使館がトカラモネスの大使館を兼ねている状況です」
ナツミと進藤は倉田に礼を言い、ケンジの所持品を手に領事館を後にした。ホテルへ戻る二人の足取りは重かった。ナツミは所持品の入った紙袋を抱えながら、黙ったまま歩き続けた。
「とりあえず、生きているかもしれないと分かっただけでもよかったじゃないか」
進藤は励ますつもりでそう言ったが、ナツミは首を小さく縦に振るだけだった。
ホテルに戻りナツミがシャワーを浴びている間、進藤はベッドの上に並べられたケンジの所持品をひとつひとつ手に取り眺めてみた。表紙のはずれかけたノートにはケンジのものと思われるきれいな字で、旅先での出来事が記録されていた。パラパラとページをめくるうちに、一枚の便箋がノートの間から落ちた。それを拾い上げて読むうちに進藤の表情は次第に険しくなった。
「何読んでるの?」
シャワーからあがったナツミが濡れた髪をタオルで拭きながら声をかけた。進藤は咄嗟にその手紙をポケットにねじこみ、「ノートを読んでいた」と答えた。
ナツミは進藤の戸惑いに気付かず、
「明日トカラモネスに行ってみようと思うんだ」と言った。
「大丈夫なのか?」
「ここまで来てトカラモネスに行かなかったら意味がないよ。倉田さんは危険だと言ってたけど私は行ってみる。進藤さんはどうする?」
「もちろん俺も行くよ。お前がそのケンジって男を見つけるまでは一緒にいるって約束だったからな」
「無理しなくてもいいよ、私は一人で大丈夫だから」
「その逆だよ。一人じゃだめなのは俺の方だ」
「分かった。じゃあ私これからフェリー乗り場に行って時刻表調べてくるから」
「そうか、俺はちょっと疲れたから昼寝するよ」
ナツミが部屋を出て行くと、進藤はポケットから手紙を取り出しもう一度読んでみた。手紙の一番上には「ナツミへ」とある。迷いの見られる文面には何度も書き直された跡があり、未完成のまま終わっていた。
進藤は手紙を手にしたまま窓際に立ち、窓の下を小走りにフェリー乗り場へと向かうナツミの後ろ姿を見送った。
「あのとき、一つだけ嘘をついた」。握り締めた手紙はその言葉で始まっていた。