海を渡る風人たち
プラトナーンは首都ホープシティーからバスで6時間、島の反対側に位置するトカラモネス第二の都市だ。人口は120万人。政治の中心がホープシティーであるのに対し、プラトナーンは漁業を主体とした商業の中心地として知られている。
バスターミナルを出ると和田はメインストリートの方向へ歩き出した。歩道脇に並ぶフルーツや衣料品を売る屋台、品定めをする客に混じって子供たちがストリートを走り抜ける。どちらかというと保守的な空気のホープシティーと比べ、プラトナーンには飾り気のない庶民の生活があった。
ラッキー・ゲストハウス。和田が立ち止まった建物の入り口に、はげかけたペンキでそう記されていた。その横に明らかに外国人の手によるものと思われる日本語で、「いらっしゃいませ」と書いてあった。
暗い階段を上がりドアを開けると、机の向こうで髪の長い男が映りの悪いテレビを見ていた。
「部屋は空いてますか?」
「ちょっと待って・・・ああ、ちょうど一つ空いたところだよ」
「いくらですか?」
「250ビーン、1週間だと1500ビーン」
和田が3泊分の750ビーンを渡すと、男は黒ずんだ木の札のついた鍵を差し出した。荷物を引きずるように階段を上がると34号室は目の前にあった。
ホープシティーのホテルとは比べ物にならない粗末な部屋ではあったが、窓を開けると目の前に海が広がっているのが気に入った。和田はしばらく太陽光を反射する海を眺め、ふと思いついたようにスーツケースからスケッチブックを取り出すと、窓の向こうに広がる風景を描き始めた。
絵が完成に近くなった頃、窓の下で突然銃声が鳴り響いた。女性の甲高い悲鳴に混じって、男たちの怒声が窓の下から聞こえてくる。窓から身を乗り出して通りを見ると、バンダナで顔の下半分を隠した数人の男たちが、地面にうずくまる男を蹴り飛ばしていた。
男は両手で頭を抑え必死に身を守ろうとするが、取り囲む男たちの容赦ない一撃が腹や足に加えられる。人気の途絶えた通りに銃床が男の骨に食い込むときにする鈍い音が響いた。男の横では小さな女の子が泣いている。男の子供なのだろうか、色彩を失った光景のなかにその少女の姿だけが鮮やかに浮かび上がる。
それからしばらくして男たちは去った。ドアの隙間から怖々と外をのぞき、人がいないのを確認すると一人また一人と人が集まってきた。うつ伏せになった男は微動だにしない。少女の泣き声が静止した光景に再び現実感を蘇らせる。
人垣の中から痩せた男が少女のもとに歩み寄り小さな肩に手をかけた。その後ろ姿には見覚えがあった。ソルだ!和田は咄嗟に声をかけようと思ったが声が出なかった。恐怖のため喉の奥が乾き口を動かすのさえままならない。スケッチブックをベッドの上に放り出すと、階段を駆け下り二人のもとへ向かった。
少女は顔をソルの体に押しつけ泣いていた。息の絶えた男の額は割れ、そこから骨が剥き出しになっていた。男を取り囲む数十人の人々は胸に手を合わせ何かを祈っている。
「ひどい・・・」
思わず和田は口にした。その声を聞いてソルが振り返った。その目は初めて見たときとは違う何かに怒る目だった。ソルは口を開きかけたが和田は手を挙げて遮り、
「その子の肩をしばらく抱いてやってくれ」と言った。
救急車が現場に到着したのはそれから20分後のことだった。老女の一人が興奮して駆けつけた救急隊員に掴みかかったが、数人の男たちによって引き止められた。老女はしゃがみ込んで泣いている。和田の目にも自然と涙が溢れてきた。
国境のフェリー乗り場は大きな荷物を抱えた人々でごった返していた。中には着の身着のままで逃げ出してきたのだろう、何も持たず、しっかりと子供の手を握り締めている母親もいる。
「どうなってるんだこれは?」
進藤は人込みを掻き分けながらナツミに向かって叫んだ。
「分からない、でも何かあったのは間違いない。昨日はこんなじゃなかったから」
トルコの国境検問所には長い人の列が出来ていた。人々の表情には憔悴の色が濃く、荷物に寄りかかって呆然と一点を見つめている。
「どうやらトカラモネスが大変なことになったらしいな」
「どうする、行く?」
ナツミが進藤の目を見つめて聞いた。ナツミの目には何も示唆するものがない。行くかどうかは自分の判断だと進藤は思った。
「もちろん、お前は?」
「行くよ・・・私、怖くない!」
ナツミは力強く言った。それは嘘だった。このまま海を渡れば取り返しのつかないことになることは分かっていた。そう考えると恐怖が体の奥から突き上げた。きっと今の選択を後悔する時が来るだろう。それでも何もしないで後悔するより、何かをして後悔した方がいい。そう心に決めると、ナツミは進藤の先に立ってフェリーへと進んだ。
フェリー後方の甲板に立って、二人は遠ざかるイスタンブールの街並みを無言で見つめた。海の向こう側に降り立ったとき、もうその街並みを見ることはできないだろう。そう思うと初めて見るイスタンブールの輪郭に懐かしさを覚えた。
「ねえ、ここまで一緒に来てくれたから教えてあげるよ」
「なにを?」
「あのときね、ケンジが旅に出ると言ったとき、私一緒に行こうと思ったんだ。でも言えなかった」
「どうして?」
「怖かったの。私はまだお笑いの夢を諦めてなかったし、このままケンジと旅に出て日本に戻ってきて何が待っているんだろうと思った」
「それは俺も同じだ。旅に出たところでいつか日本に帰ることになるだろう。そのとき何をしていいか途方に暮れるに違いない」
相手がナツミでなかったら旅に出ようとは思わなかっただろう、とは言わなかった。
「お前が正直に話してくれたから俺も言おう」
そう言って進藤はポケットからケンジの書いた手紙を取り出した。
「なにこれ?」
「ノートの間にはさまっていた。お前に見せるべきか考えたが咄嗟に隠してしまった。親友からお前に宛てた手紙だ。俺は中にいるから一人で読むといい」
そう言って進藤はナツミを残し船室に入っていった。
折りたたまれた手紙を広げると懐かしい文字が目に飛び込んできた。ナツミは手すりに寄りかかり、ケンジの書いた文字を追っていった。読み進むうちにナツミの目に涙が溢れてきた。手紙を読み終えるとナツミは座り込み、膝の間に顔をうずめて泣き出した。
ナツミへ
あのとき、一つだけ嘘をついた。新宿の喫茶店でナツミが「本当に帰ってくるの?」と聞いたときぼくは必ず帰って来ると言った。でも、本当のことを言うと分からなかった。
今ぼくは列車でイスタンブールに向かっている。あと5時間もすればアジアの終点だ。とても素晴らしい人たちに出会った。忘れられない風景を見た。日本から持ってきた資金は残り少なくなり、このままだとあと1ヶ月旅を続けるのは難しいかもしれない。
もし旅に終わりがあるとしたら、それは自分で決めるものではないと思う。お金でもない。あるときふとしたきっかけで家に帰りたいと思うとき、それが旅の終わりなのだと思う。ぼくの旅はまだまだ終わりそうにない。
ぼくはナツミにだけは正直でありたい。だからナツミにだけは言う。
ぼくはゲイだ。小学生の頃から男が好きだった。そんな自分がずっと嫌いで、それは今にまで続いている。ナツミを女として好きになりたかった。でもぼくにはそれができない。とても苦しかった。
もしかしたらこの先ナツミに会うことはないかもしれない。だから今のうちに言っておきたい。ありがとう、ナツミ。ナツミはぼくの大切な友達だった。
ぼくたちは風人だ。重みを振り捨て、高々と舞い上がっていく。やがて風人たちは
手紙はそこで終わっていた。
「最後の一行は何だったのかな?やがて風人たちは、どうなるんだろう」
顔を上げると進藤が海を見ながらタバコをふかしていた。ナツミは鼻をすすりながら、シャツの袖で目を拭いた。
「かっこいい奴だな、お前が好きになるのも分かるよ」
「いつも優しかった」
「風人たちの物語はまだ終わっていない。泣いてる場合じゃないだろうが、これで涙拭けよ」
進藤は怒ったように言って、ナツミにティッシュを投げた。
「・・・やがて風人たちは海を渡る」
海を見ながら進藤が呟く。
「その向こうに待っているものが何であるか、風人たちはまだ知らない」