南国のジングルベル
「国家の描く理想像に国民がついてこれなかったからでしょう」
なぜトカラモネスはこんなになってしまったんだろう、和田の問いにソルが答えた。メインストリートに並ぶ商店の多くはシャッターを閉ざし、道端にはゴミが散乱している。プラトナーンの空港やフェリー乗り場は、国外に脱出する人々で溢れているとソルは言った。
「異人種が仲良く共存する社会っていうのはあくまでも建前です。よく見ると分かりますが、実際には人種や宗教によって職業や居住地域に見えない線が引かれているんです」
「言われてみればそうかもしれないな。私がホープシティーで泊まっていたホテルでも掃除夫や庭師はみんな黒人や肌の黒い人たちだったように思う」
「異人種間に対話がないんです、この国は」
「それなのに何でここまで国が保たれてきたのだろう?」
「お金です。この国は周辺の国と比べると格段に生活レベルが高く、観光や漁業といった主幹産業も安定していましたからね。ところがここ数年、周辺国の経済発展とともにトカラモネスの経済に翳りが見えてきた。そこに反政府勢力が活路を見出したということでしょう」
「するとバンダナを巻いたあの男たちは?」
「LSPT、トカラモネス解放連合だと思います」
二人は開いている食堂を見つけ席についた。
「ここ数日のうちに情勢が激変することはないにしても、和田さんもそろそろこの国を脱出することを考えておいた方がいいかもしれません」
和田の帰国便まではあと1週間あった。予定を繰り上げてトカラモネスを出国することは可能だったが、好奇心がそれを押しとどめていた。
「ソル君はどうするつもりなの?」
「僕は他に行くところがないから。この国がどんな状況になろうともここに残るつもりでいます」
自分と似ている、と和田は思った。ぬるいコークの入ったグラスを手に遠くを見るソルの目には、人を惹きつける何かがあった。自分の国を捨てた人間は、皆こんな表情をしているのかもしれないと思った。
「私もね、実は行くところがないんですよ。30年勤めた建設会社をリストラされて、再就職をと思っていたんですがこの年じゃね」
そう言って和田は自嘲するように笑った。
「それでトカラモネスに?」
「ええ、どこでもよかったんだけどね。気が付くと旅行会社に電話してトカラモネスへのチケットを買っていました」
奥さんや子供は?日本に帰ったらどうするつもりですか?普通の人ならば当たり前のように聞くことをソルは聞かなかった。ソルは和田の話を聞いてしばらく黙り、ふと思いついたように言った。
「これからちょっと時間ありますか?」
「時間?私は自由気ままな一人旅だから、時間なら掃いて捨てるほどありますよ」
「ちょっと僕に付き合ってもらえませんか?和田さんに見せたいものがあるんです」
そう言うとソルは和田に先立って店を出た。
メインストリートからはずれ、細い路地を10分ほど進むと金網に囲まれた敷地に突き当たった。ソルは金網の破れているところから身を屈めて中に入り、奥にある廃墟のような建物を目指して歩いた。
「どこへ行くの?」
和田が不安になって聞くと、ソルは「もう少しです」と答えた。コンクリートが剥き出しになったままのその建物は、途中まで建設され工事が中断されたように見えた。屋上には鉄骨が宙に向かって伸び、雨ざらしにされ錆びついたパイプやドラム缶が周囲に転がっている。
ソルは階段を上がり屋上に出ると、隅の方にある白とオレンジ色のテントを指差した。
「あれが僕の家です」
「ここに住んでいるんだ」
和田が感心したように言うと、ソルは「JD!」と呼んだ。するとテントの中から茶色い毛の痩せた犬が走り出てきた。
「僕の犬です。捨てられていたのを拾ってきたんです」
ソルははにかんだように言った。JDはソルのもとに走りよると、尻尾を振りながらソルにまとわりついた。ソルは少年のような笑顔でJDの頭をなでている。初めて見るソルの笑顔だった。
「お金がなくなって街をさ迷っているとき、偶然このビルを見つけたんです。初めはアルバイトを見つけて、お金が入ったらどこかに部屋を借りようと思っていたらここが気に入ってしまって。それ以来ずっとここで暮らしています」
「失礼だけどソル君は今何才なの?」
「ハタチ・・・もう少しで21才になります」
ソルの話し方や振る舞いに、現代の20才の若者を象徴するところはなかった。窪んだ目の奥に宿る光はナイフのように鋭く、自分をしっかり捕まえていないと抉り取られてしまいそうだ。
これと同じ目をどこかで見たことがある、と和田は思った。それは夜の新宿で「地球滅亡のときは近い」と道行く人に呼びかけていた新興宗教の青年たちだった。都会を吹き抜ける師走の風は冷たく、白装束一枚身につけただけの青年たちの姿は目立った。彼らは悲痛な声で世の終末が近いことを訴え、今こそ神に帰依すべき時だと強調した。その声は街角から流れるクリスマスソングにかき消され、口だけが機械仕掛けのようにパクパクと動いているように見えた。
「どうしました?」
「いや、ちょっとソル君に似ている人を思い出してね」
和田は心中の思いを見抜かれたのではないかと思い、冷や冷やしながら答えた。ソルは和田の焦りを気に留める風でもなく、傍らで目をつぶっている犬の頭をなでていた。
「もうすぐクリスマスなんですよね」
ソルが眩しそうに空を見上げながら言った。
「そうだね、ここにいるとクリスマスがこの世の中に存在することすら不思議に思えてくる」
「トカラモネスにもサンタクロースは来るんでしょうか?」
「どうだろう、少なくともあの格好では暑そうだな」
そう言って和田は笑った。ソルと話していると不思議と心が軽くなった。父子ほどにも年齢の離れた二人はまるで懐かしい友人に出会ったように、それからしばらく海風の吹きぬける屋上で話をした。
和田のジョークにソルが腹を抱えて笑う。笑うときのソルはとても美しいと思った。こんな青年に行き場がないなんて、世の中はどうかしている。そう思うと急に寂しさがこみ上げてきた。
「ソル、海を見に行こう」
和田が提案すると、「行きましょう」といってソルも立ち上がった。JDとソルは廃墟の前に広がる草むらを、飛び跳ねるようにして進んで行く。トカラモネスに来てよかった、和田はそのとき初めて思った。
ふと振り返ると灰色のコンクリートが背後に聳え立っていた。それはどことなく東京を連想させた。もうあの街に戻ることはないかもしれない、そう思っても寂しさは沸いてこなかった。
「走れ橇よ、風のように」
和田の口ずさむジングルベルの歌が野原に広がっていった。