東京の風人たち
Dreams age faster than dreamers; that is a fact of life.
夢は人よりも早く年を取る。これは人生における事実だ。--- スティーブン・キング "Dream Catcher"より
「ありがとうございました!」
ナツミは大きな声で言うと、深々と頭を下げた。
途中数カ所台詞に詰まったところもあったが、出来は悪くないはずだ。ネタも数ある中から一番自信のあるものを使ったし、アクションも大げさに過ぎない程度に抑えた。自信も技術も欠けていた半年前のオーディションと比べると、出来は数段いいはずだ。額に浮き上がる汗を拭いながら、ナツミはそう考えた。
プロへの第一関門であるこの審査を通過すれば、お笑い芸人としてデビューすることも夢ではなかった。それはナツミが小学生の頃から憧れ、いつしか現実に追い求めることになった目標だった。
大勢の観客の前に立ち、言葉と動作の絶妙な組み合わせで人を笑わせる。一見簡単そうに見える笑いの裏には、人目には映らない努力や苦労があった。
笑いのツボは人によって様々だ。観客の中には子供からお年寄りまでいて、皆それぞれの世界に住み、異なった人生観、世界観の中に生きている。
その不特定多数の人々を相手に、笑いという共通項を引き出す技術は並大抵のものではない。時には笑わせるつもりが人を怒らせ、また悲しませることもあった。臆病になって笑いの攻撃性を抑えると、無反応な観客の冷めた視線を浴びることもある。
一度観客の間に無関心を引き起こすと、その後のギャグがすべて空回りした。場を取り繕おうとアクションを大げさにしたり、声量を上げてみたり。何をしても観客の注意を呼び戻すことが出来ないと分かったとき、今度は話すスピードが速くなり、何度も練習したはずの台詞が出てこない。そんなときは舞台から下がるとき、まともに観客の顔を見ることができなかった。
その場で土下座して謝ることができたらどんなに楽だろうかと、ナツミは何度も思ったことがある。しかし最後まで笑顔を絶やさず、舞台から颯爽と立ち去って行かなければならない。それが出来なければ芸人としては失格だ。
ナツミは真剣な眼差しで、目の前に座る審査員を見つめた。そこにはテレビでよく見る関東のお笑い芸人やタレント、大手のプロダクションのスカウト担当者、若者向けの雑誌編集者などが顔を並べていた。いずれも壮々たる顔ぶれだ。
「はい、ご苦労さん」
初めにそう言ったのは司会役を務める、プロダクションのスカウト担当者だった。
「ありがとうございます」
そう言ってナツミはもう一度頭を下げた。
「工藤・・・ナツミさんだね?」
「はい、そうです」
「あなた今何才?」
「ハタチです」
「へえ、若いんだ。履歴書には大学中退ってあるけど、どうしてまた?」
「はい、大学の勉強は自分にあまり合わないと思いました」
「ふ〜ん、それでお笑いタレントを目指したってわけ?」
「いえ、それだけではなくて、この仕事には子供の頃から憧れていました」
「憧れねえ」
男は皮肉っぽくナツミの言葉を繰り返し、審査員席に座るタレントにコメントを求めた。
若者文化の担い手として一躍時の人となったそのタレントは、眼鏡の向こうから狡猾そうな視線をナツミに向けこう言った。
「工藤さん、僕ははっきり言う男だから、まずそれを理解してもらいたいんだ。君はこの世界に向いていないよ。ネタに新鮮味がないし、何て言うのか・・・こう、客を惹きつける要素が君にはないんだよね」
「はい」
「まだハタチだろ?悪いことは言わないから、ちゃんと大学を出て自分に合った道に進んだ方がいいよ」
「でも・・・」
ナツミが何かを言いかけると、司会役の男が苦笑しながらそれをさえぎった。
「ごめん、時間が限られているんでね。じゃ、次の人呼んでもらえるかな?」
黄昏時の大久保通りを新宿に向かって歩きながら、ナツミはケンジの言葉を思い出していた。
「俺さ、何か新宿って好きなんだよね」
ケンジは新宿に来ると、決まってそう言った。
「東京ってヨーロッパやアメリカの街みたいにするのが、格好いいみたいに思ってるとこあるでしょ?古い建物を次から次へと取り壊して、冷たい感じのするビルを建ててさ」
「確かにそういうとこあるよね」
「でも新宿は違うよ。新しい建物は増えたけど、ここだけはアジアっていう気がする」
「アジア?」
「うん。人も街も雑多で、世間から身を隠すことができる唯一の街っていう気がする」
「ふ〜ん」
その時のナツミには、ケンジの言っていることが今ひとつピンとこなかった。
「今度何か嫌なことがあったとき、新宿に来てみな。この街を歩いていると、色んなことがどうでもよくなるよ」
ナツミは大通りから路地を一本入ったところにある小さなベトナム料理の店で、ハノイ定食という名のランチセットを注文した。そこで働く従業員はみなベトナム人で、店内にもベトナム人らしき客の姿が目立った。
「君はこの世界に向いてないよ」
考えまいと思いながら、その言葉が耳鳴りのようにナツミの頭の中で響いていた。正面から受け止めるにはあまりに直接的な一言だったが、心のどこかでそう感じてきたことはナツミにも否定できない。根が直情径行であるだけに、目標を定めたあとのナツミは、その対象へとわき目もふらず直進してしまうことがあった。
「オマチドウサマ」
料理を運んできたのはナツミと同じぐらいの年齢の女性だった。その日本語はたどたどしかった。
「ありがとう」
ナツミが笑顔で言うと、その女性はにっこり微笑んで店の奥へ下がった。
ハノイ定食はお世辞にも豪華とは言えないものだったが、同時にそこには生きるために食べるという剛健さがあった。鼻腔をくすぐる香辛料の匂い、魚醤をまぶした色鮮やかな炒め物。ベトナム語の飛び交う店内で一人箸を運んでいると、ケンジが言った「この街を歩いていると、色んなことがどうでもよくなるよ」という言葉の意味が、ナツミにも分かるような気がした。
そのときふいに熱いものが胸の奥からこみ上げ、気がつくと大粒の涙がナツミの頬を伝っていた。隣のテーブルを片付けていたさっきの女性がそれに気づき、ナツミの痩せた肩を抱きながら、
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」と繰り返した。
駅のトイレでメイクを直したナツミは、高輪にあるコンビニに向かった。
「おはようございまーす!」
いつものように明るく挨拶すると、還暦に近い店長が、
「おっ、ナツミちゃん待ってたよ。今日もよろしくね」と声をかけた。
「わっかりました!」
「今日はやけに元気がいいねえ、何かいいことでもあったの?」
「やっぱり分かります?さっき彼氏と別れたんです」
「別れた?」
「ええ、前から嫌いだった奴だったから清々しました。あと私一人で出来るから、早く奥さんのところに帰ってあげてください」
「そうかい・・・じゃ、明日の朝また来るから」
「はい、気をつけて」
ナツミはだいぶ以前から店長の奥さんが持病の腰痛を悪化させ、今では一人で自由に動き回れないことを知っていた。本来は11時からのシフトだったが、1ヶ月前にバイトが一人辞めて以来1時間早く来て、そのシフトを穴埋めする店長と早目に交代することにしていた。
昨夜以来ほとんど寝ていなかったのでいつもより仕事がきつく感じられたが、昼間の出来事を忘れるためには働いていた方がいいのだとナツミは自分に言い聞かせた。
店内の掃除を一通り済ませ、入荷した商品を棚に並び終えた時には、時計はすでに11時を回っていた。
エプロンのポケットに入れたナツミの携帯電話が鳴ったのはその時だった。