あるサラリーマンの物語
ため息をつくのは今日何度目のことだろうか?10回?20回?いや、もっと多いような気がする。まるで生まれてこの方、ずっとため息をつき続けてきたような気分だ。和田史郎はどんより曇った東京の空を見上げながらそう考えた。
大手建設会社田島建設に勤める和田が、子会社への出向を打診されたのはつい数時間前のことだった。
「和田君、君もすでに知っているように、建設業界を取り巻く現状には非常に厳しいものがある。高島建設の話は聞いているね?」
「はい、存じ上げております」
業界三大手の一角をなす高島建設はつい2日前、業績の悪化を理由に会社更生法の適用を申請したばかりだった。バブル時代の多角化が景気の低迷とともに経営を圧迫し、ついには明治以来掲げてきた老舗の看板を下ろすこととなった。
「我々の会社が高島のような道をたどることはないにしても、今が会社創設以来最も厳しい時期であるという事実に変わりはない。そんな時だからこそ君の力を借りたいんだ」
そう言う森田の顔には、苦渋の表情が満ちていた。
和田が入社した昭和40年代は、高度経済成長の最盛期。森田より3年後に入社した和田は、二人で都内の建設現場を走り回った当時のことを、今でも昨日のことのように思い出すことができる。
納入予定だった資材が何かの手違いで注文されておらず、二人で都内の資材会社を駆けずり回ったことがあった。行く先々で頭を下げ、資材を譲ってもらうよう頼んだが、なかなか首を縦に振るものはいなかった。別の大手建設会社と取引があることを理由に資材の提供を拒否されたり、担当者と連絡が取れないとの理由で在庫を確認できず、二人がようやく資材を調達できたのは、東の空が白々と明ける頃だった。
汚れたYシャツ姿のまま会社へ戻る道すがら、二人は公園のブランコに座り缶ビールで乾杯した。その時森田が目を赤くしてこう言ったのを、和田はそれからも時々思い出すことがあった。
「和田、俺はこの会社に入って本当によかったと思っているんだ。何かこう、自分の手で国の基盤を作り上げてるという実感があるんだ」
「実感ですか?」
「そうだ。仕事に疲れたとき、そっと目をつぶってみる。すると回りの雑音が急に遠ざかり、心臓の脈打つ音が聞こえてくるんだ。血液が体内に循環するドクッドクッという音。その音は俺たちが生きている証拠であり、もしかしたら俺たちの仕事もそれと似ているんじゃないかな?日本の鼓動の只中に、今の自分はいるような気がするんだ」
毎日のように繰り返される大小のミス、年々厳しさを増す建設業界を取り巻く環境。その最前線で働きながら、和田が一度として会社を辞めようと思わなかったのは、そのときの森田の言葉が耳に残っていたからだ。
あれから30年。目の前に立つ森田を見て、ずいぶん老けたなと和田は思った。それは森田だけではなく、和田自身にも言えることだった。二度にわたる子会社出向の打診が何を意味するか、この会社で長く働いてきた和田にはよく分かっていた。
これが30年前ならばその場で辞表を叩きつけ、すぐにでも職探しに奔走することができただろう。しかし不況の時代に「建設バカ」として生き、コンピューターもろくに使いこなせない50才の男を雇う会社はそう多くはなかった。俺もずいぶん落ちぶれたものだ、和田は若き日の自分と比べそう考えた。
「森田さん、」
部長ではなく、森田さんと呼んだのはいつ以来のことだろうかと和田は思った。
「一日考えさせてください」
そうは言ったものの答えはすでに出ていた。人はいつか誰からも必要とされなくなる時が来るものなのだ。そんなときに醜い姿をさらすものではない。和田は明日の朝早く出社し、課内の誰にも見られることなく私物を整理し、そっと森田の机に辞表を置いて去ろうと思った。
「そうか、和田・・・ありがとう」
「いえ森田さん、こちらこそこれまで色々とありがとうございました」
和田は自分の声が涙でかすれているのが分かった。和田の言葉の意味を理解したのか、森田は急に土下座をして、泣きながら「すまん、和田」と謝った。
「森田さん、やめてください。私はあなたに本当に感謝しています。ここまで私がやって来れたのは森田さんがいたからこそです。どうか顔を上げてください」
森田はそれでも額を床につけたまま、顔を上げようとしなかった。
「お前を残すために、俺も出来る限りのことをした。それでもだめだった。俺の力が足りなかった、許してくれ」
「森田さん、お願いです。顔を上げてください。私も正直言うと、もうこの業界で働くのに疲れていたんですよ。森田さんのせいではない、ここが私の引き際なんです」
翌朝家から持ってきた紙袋に私物を詰め、和田はこの30年の間愛情と情熱を注いできた会社を後にした。それはまるで家出でもするような気分だった。ここまで独身を通してきた和田にとって、会社こそが家庭の役割を果たしていたのだろうと思った。
いつもと同じ時間に、会社とは逆の方向へ向かう電車に揺られながら、和田はぼんやり中吊り広告を見つめていた。派手な色使いの広告には、それ以上に派手な見出しが並んでいたが、いずれも和田の目には留まらなかった。
一体私はあと何年生きなければならないのだろう?この先に横たわる空白の日々を思い、和田は目が眩むような感覚を覚えた。
見慣れた駅のホームに電車が滑り込む。向かいのホームにはこれから出勤する人々が長い列を作っていた。
階段を下りながら和田は、行き先のない失望感に包まれていた。