新大久保のミャーちゃん

 

「ミャーちゃん、ご飯だよ」
 進藤が呼ぶと、路地裏から薄汚れた子猫が周囲を警戒しながら姿を現した。ミャーちゃんは喉を鳴らしながら、進藤の足に体をこすりつけ餌をくれるようせがむ。
「ちょっと待ってろよ、今あげるから。ほら、今日はご馳走だぞ」
 アルミホイルの中に大切そうに包まれた伊勢エビは、夕食の席で残ったものを進藤が料亭の人に包んでもらったものだ。
 表向き金融会社の社員としても肩書きを持ち、その実関東の広域暴力団の構成員として活動する進藤とミャーちゃんの関係は、進藤が新大久保に移り住んだ半年前から続いている。
「ミャーちゃん、おいしいか?ごめんな遅くなって。今日は色々あってさ」
 進藤の言葉を理解したのかどうか、ミャーちゃんは伊勢エビを食べるのを中断して進藤の顔を見上げた。
「俺も年だな、何か疲れちまったよ」
 進藤はミャーちゃんの頭をなでながら言った。

 今年36才になる進藤が極道の世界に足を踏み入れたのは、フリーターをしていた19才のときのことだった。高校時代の友人にいいアルバイトがあるからと誘われ、夜の新宿で中高生を相手にトルエンを売り始めた。元値数百円の500mlのトルエンは、末端価格にすると3千円ほどになる。そのうち8割をみかじめ料として、その地域を縄張りとする暴力団に収め、残り2割が自分の懐に入る仕組みになっていた。週末など多いときで50本以上もの売上があり、多少の後ろめたさに目をつぶれば、面白いように簡単に金が手に入った。
 暴力団の事務所に出入りするようになってから進藤の生活は一変した。組の若い構成員に連れられ高級なクラブに通い、時には電話番として事務所に寝起きするようになった。
 高校を中退して以来フリーターとして社会の日陰を歩んできた進藤にとって、組との繋がりはこれまで自分を見下してきた社会に対する、復讐のための後ろ盾ともなった。
 ただの電話番が交通事故の調停として一流企業の役員室で大声をあげたり、上納金を納めることをしぶる企業に出向いて脅しをかけるようになるまで、それほど時間はかからなかった。
 それは進藤にとって一種の高揚感と呼んでもいい。これまで鼻であしらわれてきた相手に罵声を浴びせる。それを聞く相手は恐怖に身を硬直させ、中には中学生の子供のいる前で涙を流し、許しを乞う父親もいた。

 進藤が関わった不良債権の回収で、多額の借金を抱えた一家が無理心中したのは1年前のことだった。その前日進藤は一家の自宅に出向き、2週間以内に借金返済のめどが立たない場合は、実力行使に出ると通告した。
 一家に残された選択肢は二つ。破産を宣告し、一生暴力団の影に怯えて暮らすか、父親が加入していた5千万円の生命保険が、事故死によって残された家族に支給され、それを借金の返済にあてることだった。
 秋晴れの、風の強い一日だった。当時住んでいた中野区内のマンションから事務所へ向かう途中、進藤は電話で一家が無理心中したことを知らされた。父親は進藤が立ち去ったあと、自室で寝ていた高校3年生の長女を刺殺。その後妻とともに農薬を飲むが死にきれず、父親みずから妻の心臓に包丁を突き立て、最後に自分の胸を刺したという。部屋には遺書もなく、それがかえって一家の追い詰められた状況を象徴していた。
 その事件を境に、進藤の中の何かが崩れ去った。人の弱さを目の当たりにすることで自らの力を誇大視し、自身の絶対性を確立してきた進藤。しかし進藤が心の底から憎み、復讐の炎を燃やしてきた相手は社会の片隅で溺れかけている人々ではなく、今まさに海底へ沈もうとしている自分自身であることに、そのとき初めて気がついたのかもしれない。

 翌日進藤は自分の身分を伏せたまま、一家の葬儀に参列した。事件がマスコミで報道されたこともあり参列者の数は多かったが、誰も生前の一家について話そうとする者はいなかった。誰もがうつむいたまま、必死に苦痛な時をやり過ごそうとしているように感じられた。
 就寝中に胸を刺された長女は翌年の春、都内の福祉施設に就職することが決まっていた。故人が大切にしていたのだろう、人気ロックグループのCDがポスターとともに長女の遺影に横に並べられていた。
 部屋には質素な調度品が並べられ、父親の趣味と思われる安っぽい水彩画が額に収められ飾られていた。
 主を失った家の中を見渡した進藤は、そこに自分が憎むべき対象が一つもなかったことに、あらためて激しい自責の念を覚えた。焼香する進藤の手は小刻みに震え、ついには涙が嗚咽とともに進藤の頬を伝った。

 進藤がミャーちゃんと出会ったのは、その事件から半年ほどたったある春の夜のことだった。どこからか聞こえてくる猫の鳴き声。声のする方向を探すと、子猫が高さ3mほどの塀の上でうずくまり鳴いていた。塀に登ったものの、降りられなくなってしまったようだった。
 進藤が手を伸ばして子猫の体をつかもうとすると、するりと身をかわして反対の方向に逃げて行ってしまう。そしてまた悲痛な声で鳴き始める子猫。以前の進藤ならそこで諦めたはずだったが、なぜか放っておけなくなり、近くのコンビニで缶入りのキャットフードを買い、子猫をおびきよせることにした。
 夜の新大久保でヤクザ風の男が、餌を手に猫を呼ぶ姿は人目を引いたはずだが、道行く人は一様に無関心を装って通りすぎて行った。
「それじゃ猫は来ないよ」
 突然進藤の背後で若い女の声がした。振り向くとハタチそこそこの女が、ジーンズのポケットに手を入れたまま立っていた。
「どうすれば寄ってくる?」
「餌貸して」
 女はそう言うと進藤の手から奪うようにえさを取り、チェッチェと口を鳴らしながら、
「ミャーちゃんおいで、ご飯だよ」と呼んだ。
 しかし警戒心の強い子猫はじっとうずくまったまま寄ってこようとしなかった。それでも女は必死に手を伸ばし、猫をおびき寄せようとする。そのうちじれったくなって、今度は進藤が女の手から餌を奪い、猫の方へ手を伸ばした。
「あんた顔が怖いんだよ。猫だって人の顔見分けられるんだから。ほら、餌貸して」
「うるせえ、もう少しで来るんだからよ。ミャーちゃん、ご飯だよ。早く来な、じゃないと三味線の皮にしちゃうよ」
 女が進藤に聞こえるように、わざと大きなため息をついた。

「お前、面白い奴だな」
「そう?一応お笑い目指してるからね」
「お笑い?」
「お笑いタレント。でもあんたも充分面白いよ。こんな時間に猫を救出しようとしてるんだから」
「救出ってわけじゃねえよ。ただちょっと気になっただけだ」
「そういうのを世間じゃ救出って呼ぶんだよ。いいじゃん、レスキュー隊みたいで。かっこいい」
「からかうなよ」
「からかってなんかないよ。都会の人は猫が一匹どうなろうと、知ったこっちゃないからね。それなのに必死に助けてあげようとしてるあんたはかっこよかったよ。もちろん、お世辞だけどね」
「お世辞かよ」
「あ、食べてる!」
 振り向くと、子猫は缶に小さな顔をうずめるようにして餌を食べていた。缶はたちまち空になり、子猫はミャーと声をあげておかわりを要求する。進藤が手を伸ばすと今度は子猫も逃げようとしなかった。
「あたし餌買って来るよ」
「悪いな、金持ってるか?」
「大丈夫。あんたも何か食べる?」
「ああ、ちょっと腹が減ったな。アンパンでも買ってきてくれるか?」
「了解」
 そう言って女はコンビニの方向へ走って行った。

 もちろんこの時の二人は、のちに一緒に旅に出ることになるとは想像もしていなかった。進藤も、そしてナツミも。