風が吹くとき



 進藤は約束の時間に20分ほど遅れてその喫茶店にやって来た。ナツミは店の奥の席で腰を浮かし、細い腕を振りながら進藤の名を呼んだ。
「悪い、遅くなって」
 進藤は息を切らして言った。
「ううん、急に電話して来てもらってたんだから、謝るのは私の方だよ」
 ナツミは微かに微笑を浮かべながら答えた。水を持ってきたウエイトレスに、進藤は「アイスコーヒー」と短く言った。
「どうした?電話じゃ話せないって」
「うん・・・本当はまだ迷ってるんだ、進藤さんに話すか」
 いつもの"あんた"が今日に限っては"進藤さん"に変わっていた。進藤は続く言葉を待ちながら、秋の新宿の街を眺めた。
 ついこの前まで青々としていた街路樹は葉を落とし、背景のビルと重なり合って、荒野のような印象を与えている。また冬がやって来たのだ、と進藤は思った。
 ふと思いついたように進藤が言った。
「金か?」
 進藤の唐突な言葉に、うつむいていたナツミがはっとしたように顔をあげた。
「何でお金の話だと思ったの?」
「何となくな。いつでも電話してくれと携帯の番号を渡したのに、この半年一度もかけてきたことなかったしな」
 いつかナツミが電話してくるだろうと期待していた、とは言わなかった。 ナツミは黙ったまま進藤の話を聞いていた。
「お前、俺の商売を知っているだろ?金貸しだよ、それも最低のな。そんな最低の金貸しのところに金を借りに来る連中は、みんな今のお前みたいな顔をしているんだよ。切羽詰まって明日にでも首を吊ろうかって考えてるはずなのに、どこかに傲慢な空気を漂わせているものさ」
「傲慢?」
「そう、傲慢だ。お前は他に金を工面する方法がなかったから俺のところに来たんだろ?こんな見下げ果てた、クズのような男のもとにな」
「違うよ、進藤さん・・・」
 ナツミが何かを言おうとするのを進藤が遮った。
「最低なんだよ、俺たちは。貧乏人の生き血を吸って生きているんだ。ほら、このロレックスだって、スーツだって、血の匂いがするだろ?」
 そう言って進藤は嘲るように笑った。
「やめてよ!」
 ナツミが突然大きな声で言った。ざわついた店内が一瞬にして静かになった。真っ直ぐに進藤を見据えるナツミの目には涙が浮かんでいた。
「友達がいなくなっちゃったんだよ!」
 進藤は突然のナツミの変化に言葉を失った。ナツミの目から涙がこぼれ落ちた。
「今の私には何もないんだよ。お笑い芸人の夢もあきらめた、親からはずっと前に見放されてる。そんな私から、一番大切な友達までいなくなっちゃったんだよ。どうしていいか分からないんだよ。分からないからイスタンブールに行きたいんだよ」
「イスタンブール?」
 進藤が聞き返した。
「私ってブスでバカで何の取り柄もない女じゃん。だから色んなものが私から逃げていくんだよ」
「友達を探しにイスタンブールまで行くのか?」
「もう死んでるかもしれない。昨日友達のお母さんから電話があって、パスポートから荷物までホテルに置いたまま、2週間以上も行方が分からなくなってるんだって。どうしたらいいのか分からない。ずっと考えていたら、急にあんたの顔が思い浮かんだんだよ」
「俺の顔・・・何で俺だったんだ?」
 ナツミは急に窓の外に視線を移して言った。
「あんたは口では自分を悪く言うけど、優しい人だから。だからあんただったらどうするか、聞いてみたかったんだよ。ただそれだけだよ」
 進藤はポケットからタバコを取り出して火をつけた。澱んだ店内の空気の中でその煙は行き場を失い、二人の頭上に雲のような輪を描いた。
「優しい人・・・か。お前は人間を見る目がないな。金貸しとしては失格だ」
 進藤は財布を取り出すと中味も数えず、そこに入っていた一万円札の束をわしづかみにしてナツミの前に放り投げた。
「30万はあるだろう。これでイスタンブールに行ってこい。そして、絶対に友達を見つけてこい。俺が言えるのはそれだけだ」
 進藤は立ちあがると、ナツミの方を振りかえることなく店を出て行った。一人残されたナツミは、テーブルに顔を伏せたまま泣いていた。

 その日の夕方、進藤は事務所の窓から空を見上げていた。なぜナツミに対してあんな厳しいことを言ったのか、自分でもよく分からなかった。
「今の私には何もないんだよ」
 ナツミの言葉が進藤の頭の中で鋭くこだましていた。そうなのだ、とそのとき進藤は思った。初めてナツミに会ったときから、ぼんやりと感じていたこと。それは二人には「何もない」ということだったのかもしれない。高校生活の気だるさに眩暈がしそうなときも、何も分からずこの世界に入ったときも、そして今この瞬間も。一つのことだけは変わっていなかった。
 脇の下から汗が一筋、冷たい感覚を残して滑り落ちた。
「何もない」
 進藤は窓の外に向かってつぶやくと、またすぐにいつもの厳しい表情に戻って書類の整理を始めた。そうしていると自分の置かれた現実から逃れられるような気がした。

「残念だな、せっかくいい人が来てくれたと思っていたのに・・・それで、当分は日本に帰って来ないつもりなのかい?」
 店長は明らかに落胆した様子でナツミに聞いた。
「いえ、もし彼の行方が分かったらすぐにでも日本に戻って来るつもりです。そのときは店長、また私を雇ってくださいね」
「もちろん、他の子をクビにしてもナツミちゃんを雇うよ」
 そう言って店長は寂しそうに笑った。ナツミも無理に笑顔を作ろうとしたが、店長の顔を見ると涙があふれそうになった。
「さあ、行かなくちゃ。アパートの掃除もしなくちゃいけないし、旅に出るのって大変なんですよ」
 ナツミが頭を下げて店を去ろうとすると店長が呼び止めた。
「これ、少ないけど・・・」
 そう言って店長は封筒をナツミに差し出した。律儀な店長らしく、封筒には「餞別」と墨で書かれていた。
「店長・・・」
「ナツミちゃん、応援してるよ。必ず戻って来るんだよ」
 その言葉を聞いて、こらえていた涙がナツミの目からこぼれ落ちた。
「あーあ、とうとう泣いちゃったよ。ごめんね、店長。私こういうの苦手なんだ」
「さ、私もそろそろ品だし始めなくちゃな。ナツミちゃん、それじゃ気をつけて」
 店長はくるりとナツミに背を向けて、かすれた声で言った。
「ありがとうございました。さようなら、店長」
 ナツミはそう言ってもう一度深々と頭を下げると、店を出て走り出した。このままどこまでも走って行けるような気がした。