風人たちの旅立ち

「お別れだね、ミャーちゃん」
 ナツミは猫の頭をなでながら話しかけた。半年前に初めて見たときは手の平に乗るかと思われるほど小さかった体も、今ではだいぶ大きくなり、立ち振る舞いにも堂々としたものが感じられるようになった。自分が何も変わることなく生きてきたこの半年、小猫は確実に東京の住人になったのだとナツミは思った。
 あれから進藤には一度も連絡していなかった。お金を返そうと思いながら今日まで引き延ばしてきたのは、考える時間が欲しかったからだ。あのとき進藤には嘘をついたが、ナツミはお金を貸してもらうつもりだった。決して気楽な気持ちでお金を借りに行ったわけではない。もし進藤が望むなら、自分の体に値段をつけてもいいとさえ思っていた。それを自分から切り出す前に進藤から指摘され、思いもしない形で進藤を傷つける結果となった。
 あれから3日。アパートを引き払い、お金になるものはすべて処分した。実家の両親に頼み、何とかお金を貸してもらうこともできた。決して充分とは言えないまでも、これだけのお金があればイスタンブールに自力で行くのは充分可能だった。
 ナツミは携帯を取り出し、進藤の番号を押した。2回、3回。呼び出し音が鳴るごとにナツミの心臓の鼓動は速くなった。5回目の呼び出し音。ナツミが電話を切ろうとしたところで進藤の声が応えた。
「もしもし」
 心なしか進藤の声がいつもより低く、くぐもっているように聞こえた。何度も台詞を暗唱したはずなのに、咄嗟には言葉が出てこなかった。
「もしもし?」
 進藤が聞き返した。ナツミはそれを聞いて覚悟を決め、唾をゴクリと飲み込んでから、勇気を出して話しかけた。
「ナツミです。この間はごめんなさい・・・」
「ああ、お前か」
「日本を発つ前に進藤さんに謝りたくて。それからお金も返さなくちゃいけないし」
「いいよ、あれは俺からの餞別だ。それからこの前は俺も言いすぎた。こんな男の言うことだから、あまり気にしないでくれよ」
「悪いのは私だよ。ごめんなさい」
「この話はやめよう。それで、いつ出発するんだ?」
「今度の月曜日。夕方の飛行機でイスタンブールに行きます」
「それはずいぶん急だな」
「はい」
 進藤はちょっと待っていてくれと言って、しばらく電話口から離れた。その間電話の向こうからガタガタという音が聞こえた。多分場所を移動しているのだろう。
「ごめん、周りに人が多くて。これで静かになった」
「私こういうのを改まって人に言うのは苦手なんだけど、進藤さんにはどうしても言っておきたかったんだ」
「なんだ?」
「ありがとう、って。私甘えていたんだと思う」
 電話の向こうで進藤が沈黙した。
「それに気が付かないで進藤さんにお金を借りに行ったの。進藤さんはそれを見抜いていたんだね」
「もういいだろ、その話は。それより、今夜時間あるか?」
「大丈夫」
「それじゃこの間の喫茶店で会えないかな?」
「うん」
「よし、それじゃ7時ぐらいでどうだ?」
「大丈夫」
「オーケー、それじゃ7時に」
「じゃあ」
 ナツミは電話を切った。進藤が会いたいと言った理由がナツミには分からなかった。書留でお金を郵送するつもりだったが、今夜会ったときに直接返そうとナツミは思った。

 金曜日の午後7時、新宿の街はいつもより人が多いような気がした。サラリーマンやOLに混じって、制服姿の高校生が目立つ。自分もわずか2年前までは高校生だったはずなのに、それはとても遠い過去の記憶であるような気がした。
 島根の小さな町から上京してきたナツミにとって、東京という言葉は街の集合体を意味しない。それは漠然と都市をイメージさせる言葉だった。東京に来れば何かが変わる。そう期待して大学に入学したものの、それから自分の何が変わったかと問われると、具体的に思いつくものはなかった。
 幻滅、という言葉は違うように思う。憧れで膨らんだ東京のイメージが実際と違ったからといって、東京を嫌いになったことはなかった。それを言葉にするなら、東京という街の限界を知ったと言っていいだろう。様々なものを吸収してきたこの街は今、飽和状態にあるのかもしれない。ナツミはその街に吸収されることなく、東京を去ろうとしていた。
 約束の時間より20分早く店に着くと、進藤は前と同じ席に座り新聞を広げていた。
「待った?」
 ナツミが声をかけると、進藤は新聞から顔を上げて、
「いや、さっき来たばかりだ」と言った。

 進藤の顔には憔悴の色が濃く映し出されていた。何かあったのだろうと思いながら、ナツミはそれに触れることをしなかった。
 二人はしばらくとりとめのない会話を交わしながら、話を切り出すタイミングをうかがっていた。初めにその話を持ち出したのは進藤の方だった。
「お前、この間言ったよな、"何もない"って」
「うん」
「あれを聞いたとき、正直いって意外だったよ」
「なんで?」
「お前はいつも楽しそうだったからさ」
「お笑い目指してたからね、あの頃は。キャラ作りの一環だよ」
「本当にやめたのか、お笑いタレント目指すの」
「うん、自分は向いてないって気が付いたから」
「そうか」
 しばらく二人の間に気まずい沈黙が流れた。
「俺さあ、お前のあの言葉を聞いたとき、自分と同じだって思ったんだ」
「同じ?」
「そう、俺にも何もないってこと。この間お前にあんな厳しいことを言ったのは、何か夢中になれるものがあるお前に嫉妬していたからかもしれない」
「そんなことないよ、進藤さんは優しいし、みんなから頼られる人でしょ?私にはそういうものがないから」
「俺も・・・」
「何?」
「俺もイスタンブールに行ってみたいんだ」
 進藤はカップの底に残ったコーヒーを揺らしてから、一気にそれを飲み干した。 
「一緒にイスタンブールに連れて行ってもらえないかな?」
 進藤の眼差しは真剣だった。ナツミは意外な言葉に、何と答えていいか分からなかった。
「仕事はどうするの?」
「やめるつもりだ・・・といっても、普通の会社じゃないからな。誰にも告げず、こっそり消えるつもりだ」
「失踪ってこと?」
「そうなるな。お前にあの日会った後、決めたんだよ。この生活から抜け出そうって。それで毎日少しづつ、気が付かれないように大切なものを家に持ち帰っていた」
「本気なんだ」
「ああ、俺はこのままでは確実にだめになる。ずっと前から薄々感じていたことだったが、あの日お前の言葉を聞いてそれがはっきりしたんだ。俺はこの街から逃げ出したい。そして、チャンスは今しかないような気がする。これを逃せば俺は一生このままだろう。お前には絶対に迷惑をかけない。お前の恋人が見つかったら、俺はそこから自分の道を行くつもりだ。だから、一緒にイスタンブールに行かせてくれないか?」
 ナツミはうつむいて考えこんだ。進藤とイスタンブールに行くことには何の支障もなかったが、それが進藤にとって期待通りの旅になるとは思えなかった。自分の中の依存心が、進藤にとって重荷になることも考えられた。ここははっきりと断ろう、進藤の気持ちが揺れ動いているうちに。ナツミはそう思った。
 ところがいざ口を開くと、ナツミは全く逆のことを言っていた。
「進藤さん・・・一緒に行こう、イスタンブールに。イスタンブールに、一緒に行こう」
「本当にいいのか?」
「うん、お願いするのは私の方。ケンジはまだどこかで生きているような気がする。ううん、絶対に生きてる。だからケンジを探すのを進藤さんにも手伝ってもらいたい。進藤さん、お願いします。私とイスタンブールに行ってください」
 そう言ってナツミは頭を下げた。
「よし、話は決まった。今からでも月曜日の飛行機のチケットは買えるかな?」
「インターネットで調べてみようか」
「そうだな」

 二人は喫茶店を出て夜の新宿の街を歩き出した。何かが変わるという期待が自然と二人の足を早めた。
 進藤は歩きながらネクタイをはずし、それを丸めると道端のゴミ箱に投げ捨てた。ナツミはそのとき初めて、ケンジがまだどこかで生きていることを確信した。
 
 二人の風人の旅が始まった。