ハタチの旅立ち (東京〜バンコク)


旅に出よう
テントとシュラフの入った
ザックを背負い
ポケットには
一箱の煙草と笛をもち
旅に出よう

出発の日は雨がよい
霧のようにやわらかい
春の雨の日がよい
萌え出でた若芽が
しっとりとぬれながら

そして富士の山にあるという
原始林の中にゆこう
ゆっくりとあせることなく

大きな杉の古木にきたら
一層暗いその根本に腰をおろして休もう
そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

近代社会の臭いのする その煙を
古木よ おまえは何と感じるか

原始林の中にあるという湖をさがそう
そしてその岸辺にたたずんで
一本の煙草を喫おう
煙をすべて吐き出して
ザックのかたわらで静かに休もう

原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
湖に小舟をうかべよう

衣類を脱ぎすて
すべらかな肌をやみにつつみ
左手に笛をもって
湖の水面を暗やみの中に漂いながら
笛をふこう

小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
中天より涼風を肌に流させながら
静かに眠ろう
そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

― 高野悦子「二十歳の原点」 ―  

 

 眼下に広がる成田の田園地帯が小さくなり、やがて窓の後方へと消えて行った。ぼくは少し体を曲げ、もう一度その風景を見ようとする。やがてそれさえも雲の向こうに消えて行くと、体を深くシートにうずめ目を閉じた。
 瞼の向こうに映るのはたった今見た成田の風景ではなく、生まれて以来暮らして来た海辺の町の風景だった。

「一年ぐらい旅をしてこようと思うんだ」
 学校から駅までの道をたどりながら、突然ぼくは友人に言った。4月のある日のことだった。旅の話を持ち出すまで、ぼくと友人が何を話していたのか思い出せない。きっとつまらない授業の愚痴を言い、これからどこへ行き何をして遊ぶか、どこで何をしても同じだと思いながら相談していたのだと思う。
 それはぼくたちにとって日常のことだった。何もないと知りつつ、考えるふりをすることで失望感から目をそむけていたハタチの日々。
「どこ行くの?」
 友人はそれをいつもの夢物語と思ったのか、驚いた様子もなくぼくに聞いた。
「まだ決めてない・・・アジアからスタートして、出来れば世界一周」
「すごいなあ、オレも行ってみたい」
「一緒に行く?」
 ぼくは友人に聞いてみた。
「無理だよ・・・学校があるし、お金もないし」
「そうか・・・そうだよね」
 残念そうに言ったものの、初めから誰かと旅をするつもりはなかった。人と旅するのが嫌いなわけではない。ほんの少し今の場所を離れるために、ぼくを知る人たちからも同時に遠ざかってみたいと考えていた。知らない町で、知らない誰かとして旅する。それは小さい頃からぼくのなかに住み続けた変身願望だったのだと思う。
 この数年間アルバイトして貯めたお金が約100万円。どんなに切り詰めたところで、1年も旅を続けることが出来ないことは分かっていた。いったいこれだけの資金で、どこまで行けるのだろう。まるで他人事のように旅の行く末を考えながら、そんな不安定で計画性のない旅を、いかにも自分らしい選択だと思った。

 新宿の街をぶらつきながら、ぼくは初めて日本を訪れる外国人のような気分を味わっていた。闇にきらめくネオンの洪水、横断歩道の向こうから押し寄せる人の群れ。昨日までは何でもなかったこの街の風景に、ぼくは言いようのない息苦しさを覚えていた。
 すれ違う屈託のない笑顔。その笑顔に混じってときどき無表情な顔が行き過ぎる。それは東京に住む人々がほんの一瞬見せる隙と呼んでもいいかもしれない。どこに向かうわけでもなく、ただ足の動きに従っているだけのように見える。
 剥がれかけたポスターには政治家がガッツポーズを取り、「若い力が日本を変えます!」と書いてあった。それは足早に通りを行き交う人々が起こす風によって頼りなくはためき、どこか現実とは遠い希薄な空気のなかに浮かんでいるように見えた。
 旅行代理店を出たとき、ぼくの手にはバンコク行きの片道航空券が握られていた。往復でも片道でも値段はほとんど変わらなかったが、どうしても片道航空券でなければいけないような気がした。ぼくのなかにわだかまる迷いを、その航空券によって断ち切りたかったからだ。もう後戻りはできない、どうするつもりだ。そのチケットはぼくにそう問い掛けているように思えた。

 飛行機の微妙な揺れの変化に目を覚ました。時計を見ると、バンコクの到着まであと数十分というところまで来ていた。
 旅が始まると同時に何かが終わったはずだったが、ぼくはそれが何であるか分からなかった。飛行機はぐんぐん高度を落とし、微笑みの国へ着陸しようとしている。

微笑みの国(バンコク)