微笑みの国 (バンコク)



 その日の午後、ぼくは安宿の並ぶカオサン通りの食堂で、アル中の男と話をしていた。赤ら顔の男の息は酒臭く、ろれつの回らなくなった口から出る英語はひどく聞き取りにくかった。
「もうどこにも行くところがなくなった」と男は言った。
「本当に旅をしていたのは、初めの半年ぐらいだったな。あとはただの“移動”さ」 男は店の奥でつまらなそうにテレビを見ている少女に手をあげ、ビールを持ってくるように言った。
 ぼくはかれこれ2時間近くも彼の酒に付き合いながら、男がこれまで行った国々の話を聞いていた。ヨーロッパ、中東、アフリカ。グレイハウンドバスに乗ってアメリカ大陸を東から西に横断し、半年前に日本を経由してタイへやって来た。旅に出てからもうすぐ5年になるという。
「その間一度も自分の国に帰らなかったの?」ぼくが聞いた。
「ああ、帰ろうと思ったことは何度もあったが、結局怖いんだな、自分の国に帰るのが」
「なんで?」
「国に帰って何があるっていうんだ?今の俺は見ての通り、金もなくこれといって特技もない人間だ。自分をこうやって卑下するのは好きじゃないが、それは事実なんだよ。そんな男に何ができる?たった一つできることと言えば、亡霊のようにつきまとう故郷の影から逃げることぐらいだろう」
 そう言って男は自嘲気味に笑った。

 男はこの安宿街で、旅行者相手にドラッグを売って生活していると噂されていた。二人で話している間も何度か焦点の定まらない目をした外国人が寄ってきて、男に何かを耳打ちし去っていった。
 男の名前はピーターかポール、はっきりとは思い出せない。男のペースに合わせてビールを飲むうちに、ぼくの記憶力はますます怪しくなってきていた。
「国を出てどれくらいになる?」男が聞いた。
「2週間ぐらいかな」
「これからどこに行くつもりだ?」
「分からない・・・でも出来るだけ遠くに行きたいと思ってる」
「遠くか・・・」
 男はそれ以上ぼくの旅の計画について聞こうとしなかった。「出来るだけ遠く」という言葉の意味を、男は理解したに違いなかった。
「人はなぜ旅をするか知っているか?」男は突然話題を変えて聞いた。
「なぜ?」
「家へ帰るためさ。家へ帰るつもりのない旅は、もう旅とは呼べないんだ」
 そう言って男はビールを飲み干し、店の奥に向かって大声で追加を注文した。

 家へ帰るつもりのない旅。それを旅と呼ばないなら、いったい何と呼べばいいのだろう。ぼくは男と別れたあと、一人でチャオプラヤ川の岸辺に佇みその言葉の意味を考えてみた。日本を出てからまだ2週間。旅と家を絡めてその目的を考えるには、距離も時間もあまりに短いような気がした。

 乾季から雨季への変わり目の、暑い一日だった。飲み慣れないビールを無理して飲んだこともあって、ぼくはホテルの部屋に着くなりベッドに倒れこんだ。開け放たれた窓から聞こえる車やバイクの音。それに重なるように天井で回る扇風機の音。ぼくはゆっくりと目を閉じ、バンコクの奏でる音楽に耳を傾けた。

ぼくの初体験(タイ)