夕陽についた嘘 (マレーシア・ペナン島)
鉄道、バスと乗り継いでペナン島のジョージタウンに着いたのは、バンコクを出ておよそ30時間後のことだった。ここからマラッカ海峡をフェリーで越えると、もうそこはインドネシアだ。
旅に出て以来20日近くが経過していた。目に入るものすべてが新鮮だった初めの頃と比べると、その刺激にも慣れ、逆に鬱陶しいとすら感じることも多くなった。
一日の大半を窓のない安宿のベッドの上で過ごし、不思議なほどよく眠ることができた。ベッドの横にある小さなテーブルの上には書きかけの手紙と、日本から持ってきた本が乱雑に積まれている。そのどれもが中途半端に放り出されている様子は、今の自分を象徴しているかのようだと思った。
その日の夕方、ぼくはサンダルの音を響かせながら、マラッカ海峡の方向へ歩いてみた。狭い路地を抜けるときに、家の人から浴びせられる好奇の眼差し。背後から「ハロー」と声をかけ、振り向くと逃げ去る子供たち。そういうものにも少しづつ疲れを覚え始めていた。
何かをしなければいけないと思う。大学を休学して旅をすると打ち明けたとき、母はぼくに言った。
「旅に出なくては出来ないことなの?せっかく苦労して入った大学なんだから。休みのときを利用して旅行なんていつでも出来るじゃない」
「旅行はいつでも出来るけど、ぼくがハタチなのは今しかない。今何かをしないと、自分がどんどんダメな人間になっていくような気がするんだよ」
「あなたの言う何かっていうのは、勉強を途中で放り出して自分勝手なことをすること?だったら旅行でも何でも勝手にしなさい」
「誰もそんなこと言ってないじゃん、ちゃんと話を聞いてよ」
「だってそういうことでしょ、あなたの言ってることは。何を言ったって最後には自分の好きなようにするんだから。そういうところお父さんそっくり」
「一年だけ、一年したら大学にも復学するし、働くようになったら必ず学費も毎月返すから」
「もう好きなようにしなさい、お母さんは何も言わないから。その代わり自分で好きなことをやるんだから、責任もちゃんと自分で取りなさいよ。何かあって助けを求めてきても、お母さんは知らないから」
マラッカ海峡に面した岸壁にたどり着いたとき、目の前には夕陽に赤く染まる空と海が広がっていた。ぼくはコンクリートの岸壁の上に寝そべり、穏やかな波の音に耳を澄ましてみた。
一体自分は何がしたくて旅に出たのだろう?世界を放浪して何かを見出すという野心に満ちた旅でもなく、かといって骨休めにリゾートや観光地に出かけるような軽さもなかった。旅の目的の曖昧さが空白の日々となって、ぼくの心にぽっかりと穴をあけていた。
その夜、ぼくは旅に出て以来初めて母に電話をした。
「今どこなの?」母は心配そうな声で聞いた。
「マレーシアのペナン島っていう所。マラッカ海峡で見た夕陽がすごくキレイだった」
「いいわねえ。ちゃんとご飯食べてる?病気してない?」
母は出発前と違って、一つも批判めいたことを口にしなかった。それがかえって今のぼくには辛かった。
「大丈夫だよ、体だけは丈夫だし。それより犬の散歩ちゃんと行ってる?可哀想だから一日に最低30分は散歩させてよ」
犬とは数ヶ月前ぼくが学校の帰りに拾ってきた、雑種の犬のことだった。旅に出て20日がたった今でも、毎日散歩に行っていた夕方になるとぼくは犬のことを考えていた。
「大丈夫よ、ちゃんと行ってるから。これからも時々電話しなさいよ」
「分かった。じゃあ、また電話するから」
ぼくは母に嘘ばかりついている。いい嘘も、悪い嘘も。日本を離れたのは、母だけでなく色々な人にこれ以上嘘をつくのが耐えられなかったからかもしれない。
そんなことを考えていたら、その夜はなかなか寝つけなくなった。カバンからアスピリンを取り出し、水とともに2錠流し込む。やがて何とも言えない倦怠感とともに、静かな眠りが訪れた。