山本さんの生と死 (インドネシア・メダン)



 東京にいた頃の山本はいつも何かに苛立っていた。それはノロノロ歩く前の人であったり、仕事も出来ないのに大きな口を叩く部下であったり、あるいは駅前に無造作に置かれた自転車であったりした。

「なぜあんなに怒ってばかりいたのかよく分からない。もしかしたら俺は何よりも、自分自身に怒っていたのかもしれないな」。当時のことを振り返って言う山本さんの表情は穏やかだ。

 たしなむ程度だった酒の量がいつしか増え、アルコール依存症と診断される頃には、ほとんど食事もとらず、酒しか口に入れないようになっていた。
 前後不覚になるまで酒を飲んだ翌朝、目を覚ますと見慣れない光景が目の前に広がっていた。そこが上野駅のホームであると気づくのに、それほど時間はかからなかった。
 会社へ向かうサラリーマンやOLが横を過ぎるときに、汚物を見るような目で山本をチラリと見て行った。朦朧とした意識のまま自分の服に手をやると、スーツには一面自分のものと思われる吐瀉物がこびりついている。
「もう俺は終わったな」と、その時山本は思った。

 当時の山本はNHKの社会部に勤める記者だった。記者といっても仕事の大半は役所の記者クラブに詰め、役所の発表することを原稿にすることだった。また社会部記者とは名ばかりで、上司のご機嫌を伺うサラリーマンであることにはかわりなかった。
「俺のやりたいことは、こんなことじゃない」
 そう思いつつも、会社を辞める決心がなかなかつかなかった。サラリーマンと割り切ってしまえば面白い仕事だったし、生活も安定していた。何よりも小学生の時から進学教室に通って築いた偏差値社会のレールを踏み外すことは、馬鹿げているように思えた。

 上野駅で朝を迎えたその日、山本は無断で会社を休んだ。自宅のマンションに戻り、一日どうやったら苦しまずに死ねるだろうかと考えていた。9階にある部屋のベランダから下の道路を眺めてみたり、ロープをぶら下げる場所を色々と考えてみた。
 恵子が無断で会社を休んだ山本を心配して部屋を訪れたのは、その日の夕方だった。恵子は山本の様子を見てすべてを察したのか、何も言わずにキッチンへ行き、怒ったように料理を作り始めた。その間二人とも、一言も口をきかなかった。
 ふと顔を上げると、山本の前に山盛りのチャーハンが置かれていた。恵子はそれを食べろとも言わずに、黙って自分の分を食べ始めた。
 半分ほど食べたところで恵子は、「食べないの?」と山本に聞いた。
「うん」と言って山本がスプーンを手に持つと、恵子は満足そうに頷きながら、
「失敗作だけどね」と言った。
 山本が黙って食べ始めると、恵子は急に泣き出した。山本の目にも涙があふれ、どうにも止まらなくなった。
「失敗作じゃないさ」泣きながら山本が言うと、恵子はかすれた声で「うん」と言った。

 34年の人生で初めて死のうと思ったその日、山本は人生で初めて「生きよう」と思った。そして偏差値だとか肩書きだとか、自分をこれまで駆り立ててきた得体の知れないものを全て捨て去ろうと思った。
 時はちょうどベルリンの壁が崩壊した頃。地球規模で新しい風が吹き始めたように思えた。
 納得のできる人生を生きよう。できるなら、このすがすがしい時代の風に吹かれてみたいものだと山本は思った。

 あれから10年が過ぎた。現在小さな援助団体で通信技術の指導をする山本さんは、自分の選択に後悔はないと言い切る。その隣りに座る妻・恵子さんもそれを聞きながら優しく頷いた。
 ぼくは山本さんの話を聞きながら、自分のなかに勇気が湧き上がるのを感じた。一度は死ぬことまで考えた山本さんの笑顔は眩しく、これまで小さな世界のなかで迷い、答えを探し続けてきたぼくにとって、新しい世界への福音のように思えた。

青に出会う(インドネシア)