ユミの卒業式 (インド・ニューデリー)




「ねえ、吸ってみなよ。最初は気持ち悪くなるけど、すぐに気持ちよくなるからさ」
 そう言ってユミはぼくに吸いかけのガンジャ(大麻)を渡した。ぼくはそれを手にとってしばらく眺めてから覚悟を決めて口にやり、思いきり吸い込んだ。吸い込んでしばらくは何ともなかった。そのうち急に目の前がクラクラしてきて、宙に浮いているような軽さが体全体を包み始めた。
 ぼくはそれから笑いながら、「もう一回吸っちゃっていいんですか?いいんです!」と一人で何度も繰り返していたらしい。「らしい」というのは、それを聞かされたのが翌日のことだったからだ。ぼくの記憶は大麻を吸って以後途絶えている。

 翌朝目を開けると、すぐ横にユミがいた。ユミは笑いながら、
「おはよう、昨日は楽しかった?」とぼくに聞いた。
 昨日のことをユミに聞こうと思って体を起こそうとすると頭が割れるように痛み、ぼくは再びベッドに横になった。
 ユミはいたずらっぽく笑いながら、
「昨日はすごかったよ。あんたテクニシャンだねえ」と言った。まさかと思い手を下半身にやると、ぼくはパンツ一枚になっていた。
「冗談だよ、冗談。ズボンを脱がせたのは私じゃないよ。ソルトンがそのままじゃ苦しいだろうって脱がしてあげたんだよ。心配しないで」そう言ってユミはクスクスと笑った。
 ぼくは恥ずかしさでいっぱいになりながら、
「な・・・何にもしてないよね、オレ」とユミに聞いた。
「大丈夫、あんたの童貞は奪ってないよ」とユミは笑いながら、手に持ったマルボロに火をつけた。

 タバコの煙が風に乗って、窓から喧騒のデリーの街に流れていく。ぼくは目で煙の行方を追いながら、その向こうにある空の青さに思わず目を閉じた。
 デリーにやって来てもうすぐ2週間。季節を横に移動してぼくは、いつの間にか夏の只中いた。
「今日はどうするの?一日寝てる?」
 ユミがぼくに聞いた。
「分からない・・・でもしばらくは起きられそうもない」
「夕方皆でレッドフォートに行くけど、一緒に行かない?」
「うん、もしそれまでに頭痛がおさまってれば行きたい」
「よし、それじゃ一応5時ってことで。部屋の鍵はフロントに預けておいて」
 そう言ってユミはドアを開け、階段を勢いよく駆け下りて行った。そこがユミの部屋だと気づいたのはその日の夕方、ぼくが再び目を覚ましたときのことだった。

 ユミはぼくより2才年上。高校を中退した後しばらくバイト生活を続け、19才のときに五反田の風俗店に勤め始めた。そこで数年働いたあとアジアへ渡り、ネパールに半年、ラオスに4ヶ月。インドにやって来たのは1年前のことだ。バラナシ、カルカッタと渡り、この安宿に住み着いてもう二ヶ月になる。
 これがぼくの知るユミのすべてだ。そしてここに、ぼくの知らないもう一つのユミの顔がある。
「ねえ、ユミ見なかった?」
 その日の午後、ぼくはロビーでテレビを見ているヨーロッパの男に聞いた。
「ユミ?見てないな」
「ユミなら仕事中じゃないか?」
 横にいた髭面の男が卑屈な笑みを浮かべながら答えた。
「邪魔するなよ、お楽しみ中なんだからさ」

 ユミが旅行者を相手に売春をしていると聞かされたのは、ぼくが初めてユミに会ってから3週間ほどたった頃だった。
「嘘だ、ユミがそんなことをするはずがない」
 ぼくがそう言うと、オーストラリアからやって来たその男は首を振りながら、
「俺だってそう思いたいよ、ユミはいい奴だからな。でもこれは事実なんだ。外国人の旅行者に声をかけて、一晩いくらかで寝ているらしい。ユミが長期間インドにいるのはそういう理由があるんだよ」
 信じたくなかった。言葉の乱暴さとは裏腹に、繊細な心を持った女性だった。ぼくが疲れていたり、落ち込んでいると、ユミは力いっぱいぼくの背中を叩き、
「何暗い顔してるんだよ、メシ食いにいくぞ!」と誘ってくれた。
 そんなときのユミは決まって饒舌になり、ぼくに口を挟む間を与えないほど一人で話し続けた。初めてやって来たバンコクで右も左も分からず、男に促されるままタクシーに乗り、街に着いた途端100ドルの料金を請求された話。
「それで払ったの?」ぼくが聞くと、
「払うわけないじゃん。ファックユー!って言って、お金も払わず車から降りたよ。後ろから何か飛んでくるんじゃないかと、ちょっと怖かったけどね」そう言ってユミは笑った。
 目の前に座る線の細い女性のどこにそんな力が秘められているのか、ぼくはいつも不思議な気持ちでユミを眺めていた。小さなことに心を揺さぶられ、何かにつけ不安を感じることの多いぼくにとって、ユミの持つ天性の明るさや率直さは眩しいくらいの迫力としてぼくの目に映った。
 食事が終わり宿に戻る途中、ユミは照れ臭そうにタバコをふかしながらぼくに言った。
「まあ、なんつーか、色々とあるわけじゃん。色々ってことは、いつかいいこともあるってことだろ。わたし高校中退だからうまいこと言えないけどさ、その・・・元気を出せってことだよ。男だろ、ちんちんついてないのかよ」
 それは口の悪いユミが考えた出した、最大限の励ましの言葉だったと思う。ぼくはそれを聞いて涙があふれそうになった。
 ユミは立ち止まってニューデリーの街の灯りを見つめている。
「ついてるよ、もちろん。デカイのがな」
 ぼくはユミの後ろ姿に言い返した。そうして二人とも、しばらく笑いが止まらなくなった。

 ユミの売春の話を聞いた日の夜、ぼくは初めて自分からユミを食事に誘った。ユミはいつもの元気がなく、化粧っ気のない顔はドキッとするほど白かった。
 ぼくたちは食事が終わるといつもの丘に上がり、デリーの街の灯を二人で眺めた。
 もしぼくが女性を愛することができたなら、きっとこの丘でこの瞬間ユミに愛を告白しただろう。それが出来ない自分は本当に情けないと思った。ユミはこんなに優しくて、ぼくはこんなにユミのことが好きだというのに。何でぼくは男しか愛することができないのだろう?ぼくは・・・
「ユミ、卒業式やろうか」ぼくは突然ユミに言った。
「え?」
「卒業式だよ、高校卒業してなかっただろ?その卒業式だよ」
 ユミは訳が分からないといった様子で、マルボロの煙を吐き出した。ぼくはそのタバコの匂いさえも好きになってきていた。
「いい、それじゃあっちから歩いてきて」
 ぼくはユミの背中を押し、無理やり5mほど離れた位置に立たせた。
「いくよ!では、卒業生入場!」
 ユミは面倒臭そうに、サンダルを引きずりながらぼくの方に歩いてくる。ぼくはポケットにあったしわくちゃのルピー紙幣を取りだし、ゴホンと咳を一つしてから、
「ユミ殿。あなたは本校を卒業したものとしてここに証する。おめでとう、そして自分をもっと大切にしてください」と急造の卒業証書を読み上げた。
 ユミは笑いながら、
「あんたも相当壊れてるね」と言った。
 そしてぼくの頬に、そっとキスをしてくれた。

「明日また会おう」
 その夜、ぼくたちはそう言って別れた。それは何でもない別れの挨拶だった。ぼくたちは今日という日が終わりに近付くと、当たり前のように明日のことを考えた。明日という日は若いぼくたちの心のなかで脚色され、常に今日よりも光を帯びた一日のように思われた。
 ユミは二階へ、ぼくは一階の自分の部屋へ。強い風が薄いガラス窓を小刻みに揺らし、ぼくはその夜なかなか寝つくことができなかった。

闇に浮かぶ向日葵(インド)