闇に浮かぶ向日葵 (インド・ニューデリー)





 朝早くから市場に出かけ、屋台で朝食を食べた。威勢のいい掛け声、狭い通路を行き交う人々の足音。生きたニワトリの足を紐でしばり、市場のなかを売り歩く老人。大鍋の傍らでは、少女が客の使った皿を洗っている。
 皿に盛られた野菜と鶏肉の炒め物を、不器用な手つきでフォークを使って口の中に放り込む。決しておいしいとは言えない。それでもぼくは幸せだった。

 市場からの帰りがけ、花屋で一輪の向日葵(ひまわり)を買った。ユミにあげるつもりだった。花びらが落ちないように大切に持ちながら、ときどきその花を眺めては、ユミは自分にとって向日葵のようなものなのかもしれないと思った。
 色々なことをユミに話そう。ぼくが旅に出た本当の理由。自分がゲイであり、女性を愛することはできないこと。ユミなら分かってくれるような気がした。自分を飾ったり隠したりすることなく、正面からユミに向かい合いたい。ぼくは宿への道をたどりながら、初めてありのままの自分でいられる場所を見つけたような気がした。

 時計を見ると午前10時すぎ。まだ少し早いような気もしたが、しおれてしまう前に向日葵をユミに渡したかった。軽くドアをノックする。返事はない。もう一度。やはり返事はなかった。まだ寝ているのかもしれない。
 ぼくは自分の部屋に戻り、空き缶に水を入れ、そこに向日葵をさした。そうして窓辺に置き、背景の青空に黄色い花弁を浮かせてみる。初恋をする少年のような気分だった。その人が近くにいるというだけで心が浮き立ち、色々なことを想像してみた。ユミだったらどう思うだろう?ユミはこんなことが好きかな?ぼくはユミに話したいことがいっぱいあった。
 人を好きになるということは、自分の生き方や行動を、他人の目を通して見ようとすることなのかもしれない。

 それからしばらくして眠りに落ちたらしい。目を覚ましたとき、太陽はすでに西に傾きかけていた。ぼくはロビーに行ってユミの姿を探した。いつもなら多くの旅行者で賑わっているはずのロビーに、その日に限っては誰も人がいなかった。ぼくはフロントに行ってユミを見なかったか聞いた。
 その男は一瞬驚いたようにぼくの顔を見つめこう言った。
「知らなかったのかユミは死んだんだよ。今日の昼過ぎ、別のホテルの部屋で発見されたんだ」
「嘘だろ、やめてくれよ」
 そこへ顔見知りの旅行者が通りかかったので、ぼくは同じ質問をぶつけてみた。その男はフロントの男の方を見て状況を察したのか、溜息をついてこう言った。
「いいか、しっかり聞けよ。ユミが死んだのは事実だ。今日の午後、コカインの過剰摂取で遺体となっているのを発見されたんだ」
 一瞬目の前が暗くなった。ぼくの両足は急に力をなくし、体を支えることができなくなった。力なく床に座り込み、呟くように言った。
「本当なのかよ
 それだけ言うのが精一杯だった。
「とても残念だ。ユミがコカインをやっているなんて俺も知らなかった」
 男はぼくの肩に手を置き、顔をのぞきこむようにして言った。
「コカイン
「そう、それも大量にだそうだ。もしかしたらユミは
自殺」
「そういう可能性もある。フロントの男の話によると、チェックインしたときは白人の男と一緒だったらしい。それからしばらくして二人で出かけ、再び戻って来たのが午前4時過ぎ。そのときはユミ一人だったそうだ」
「その後は?」
 男は首を振った。
「誰にも分からないさ。ユミの死が事故だったのか、それとも
「自殺なんかするはずがないだろ!昨日俺はユミと約束したんだよ、"明日また会おう"って。約束したんだよ!」
 そう言いながら、ぼくの目からは止めどもなく涙が溢れだした。事情を知らない何人かの旅行者が足を止め、ぼくたちのことを遠巻きに見つめていた。
 ギリギリの所で辛うじて踏みとどまり、旅のなかで答えを見つけようとしていた。光が射しかけたと思われた途端、すべては再び闇のなかに封じられた。
 そのときぼくの頭に浮かんだのが、今朝市場で買った向日葵の花だった。それは闇のなかで原色の輝きを放ち、次第にぼくから遠ざかっていった。

 その夜、ぼくは電気を消した部屋で長いこと向日葵を見つめていた。暗闇に浮かぶ向日葵は昼間の輝きを失い、窓から吹き込む風に頼りなく揺れていた。
 悲しいはずなのに涙が出なかった。誰かと話したかったが、今の自分の気持ちを伝える相手が思い浮かばなかった。ぼくは自分で思うよりずっと孤独で、惨めな人間だったのかもしれない。
 どこか遠くへ行き、誰でもない誰かになれたなら。すべての重さを振り落とし、風のように生きていけたらどんなにいいだろう。怒りや悲しみを感じることのない世界。ぼくにはそんな場所がただ一つしかないように思われた。そしてその場所は、ぼくが日本を出る前からぼんやり考えてきた行き先だった。

もし明日が来るのなら(インド―パキスタン)