もし明日が来るのなら (デリー〜イスラマバード)
パキスタンとの国境へと続く山道を、ぼくを乗せたバスは黒煙を吐きながら走る。右手に連なる白銀のヒマラヤ山脈。道路を横切る家畜のニワトリや牛。老人たちは土作りの家の軒先で、小さな子供たちが遊ぶのを眺めている。その顔はヒマラヤから吹きおろす風にさらされ、赤黒く、背景の砂と岩の大地埋もれているかのように見える。
ぼくは窓に寄りかかりながら、窓の外の風景をぼんやりと見つめていた。暖房のきかない車内は寒く、ぼくが小さな溜息をつくたびに、窓に白い丸を描いた。ぼくはポケットからアスピリンを取り出し、唾液とともに3錠胃に流し込んだ。しばらくして薬が効き始めると、ほのかに体が暖かくなり、宙を舞うような軽さに全身が包まれた。
ユミの事件以来、アスピリンはぼくにとって、精神安定剤のような働きをするようになっていた。1日に飲む量は軽く10錠を越え、多いときには知らず知らずのうちに1箱空けるようなこともあった。目は常に充血し、動きは緩慢になり、長時間動かずにいることも苦痛にならない。アスピリンのもたらす睡魔に従い目を閉じると、長く、途切れることのない眠りに逃げ込むことができた。
「私さあ、日本に帰ろうと思ってるんだ」
二人だけの卒業式のあと、ユミはぼくにそう言った。
「日本に?」
「うん。子供の頃から外国を放浪する生活に憧れていて、いつか自由になったら日本を出てみたいと思ってた。日本は嫌いだったし、日本人である自分はもっと嫌いだった。でも最近になって色々なことが分かり始めてるんだ。私は日本が嫌いだったんじゃなくて、あの頃の自分が嫌いだったんだよ。それを社会や人のせいにしていたのかもしれない。でも今は違うよ。自分の国に帰って、何か人のためになることをしたい。どんなに嫌いだったとしても、あそこは自分の生まれ育った国だからね。変わらない事実から目をそむけるんじゃなくて、これからはもっとそれを直視して生きていきたい」
ユミの目が潤んでいるように見えたのは、眼下の町の灯りが目に映し出されていたからかもしれない。いつものように右手にマルボロを挟み、溜息をつくように煙を吐き出した。ぼくはデリーの風に流されていく煙の行方を目で追った。
「この生活って一度はまると抜け出すのが難しいんだよね。何て言うのかな・・・日本にいると家族や親戚がいて、別に期待もされていないのに、それに応えようとするじゃん。すべては自分で作り上げた幻想だって分かっていても、その期待に応えられない自分を責め続けてた。私が日本を出たのは、そんな自分に疲れちゃったからかもしれない。元風俗嬢のくせに、私何エラそうなこと言ってるんだろ。ハハハ・・・」
自分に疲れた。それはぼくも同じ気持ちだった。進学校に通い、さしたる疑問も感じることなく大学へと進み、持て余した時間とエネルギーのなかで、初めて立ち止まって自分自身を見つめる余裕ができた。
大人と少年の境目にあってぼくの心は揺れ、その不安を取り除こうと様々なものにチャレンジしてみた。
女性を好きになろうとした。それが無駄な努力だと分かると、今度は社会問題へと興味の矛先を変え、これまで関心すら持たなかったパレスチナ問題に関する本を読み漁った。テーマなどどうでもよかった。それがパレスチナ問題だったのは、日本人でパレスチナ問題に詳しい人が少ないという理由だけだった。
山にも登った。わざと荒天の日を選び、生死の稜線をよじ登るのは爽快だった。様々な試行錯誤の末、ぼくは旅に出会った。初めは北海道や離島、やがてそれにも飽きるとアメリカや東南アジアにまで足を延ばすようになった。
何かをしていなければ不安になる。その何かを求めて目まぐるしく動くなかで、ぼくは疲れを覚えるようになった。弱冠ハタチにしてぼくの心は軋み、針で一突きしようものなら、音を立てて割れてしまいそうだった。
ぼくには飽和状態にあったユミの苦しみが、手に取るように分かる。その気持ちを文字にすれば「自由になりたい」であっただろう。
インドで自由を手に入れたユミは、また元の世界に戻っていこうとする。自由な日々のなかで、自分が求めていたものに出会い、自由であることの真の意味をユミは見つけたのだとぼくは思った。
「あんたに会ってから私変わったよ」
「変わった?」
「うん、あんたを見てると日本を出た頃の自分を思い出す。自分に自信がなくて、色々なものに臆病になっていた自分。ほら、これがその証拠」
そう言ってユミは長袖のシャツをめくり、何本か傷のある手首をぼくに見せた。
「あの頃はいつも死にたいと思ってた。でも今は違うよ。私・・・どうしようもなく生きたいって思ってるの。誰かのために生きてるわけじゃない。私は自分のために生きていて、それがうまくいかない時があっても、人のせいにするのはやめたんだ。この2年間の旅は私に、そんな簡単なことを教えてくれたのかもしれない」
立ち止まったユミの目の前には、ぼくたちの宿泊しているホテルがあった。ユミは何かを言いかけて口をつぐみ、
「じゃ、また明日」と言った。
ぼくもそれに応えて、
「また明日会おう」と言った。
パキスタンとの国境に到着すると、バスの乗客は荷物を持って入国審査の窓口へと歩いて行く。国境を越えるのはこれで何度目になるだろうか?
ぼくはパキスタンに入る直前、インドで一番西にあるポストに、ユミの両親に宛てた手紙を投函した。そこにはぼくとユミとの出会い、ユミがぼくに教えてくれたこと、そして最後に短く、「ユミさんの力になることが出来ませんでした。申し訳ありません」と書き添えた。差し出し人のない手紙は、ぼくとは反対、東に向かって運ばれていくことだろう。
国境でバスを乗り換え、ぼくはヒマラヤを背に首都イスラマバードを目指した。
ポケットからアスピリンを取り出し、震える手でそれを口に運ぶ。隣に座る小さな女の子が、そんなぼくの様子を不思議そうに見つめていた。ぼくは笑顔を作って、小さく手を振る。少女は白い歯を見せてぼくに笑顔を返した。
明日の朝目を覚ましたとき、少女はまだそこにいるだろうか?そしてまた、今と同じ笑顔をぼくに返してくれるだろうか?
もし明日が来るのなら・・・