夢の国 (モヘンジョダロ)

 

 インダス川に沿ったデコボコの道路を、ぼくはモヘンジョダロ行きのバスに揺られていた。古代インダス文明の中心都市であったモヘンジョダロへは、首都イスラマバードから南にバスで40時間の距離にある。

 遺跡に対する知識も関心もないぼくが、隣国アフガニスタンへのルートを大きく外れ、はるばる南の古代都市を目指したのは、前日であったルビーの勧めがあったからだ。

 ルビーはイスラマバードの工科大学で機械工学を専攻する学生だった。別の大学で物理学を教える父親を筆頭に、母、5人の兄弟のいる家庭に生まれ、ルビーの服装や身のこなしからも、平均以上の豊かな暮らしぶりが窺えた。
 最初に声をかけてきたのはルビーの方だった。
「日本人ですか?」
 ぼくはイスラマバードの中心街にあるレストランで、チャパティとカレーの昼食を摂っている最中だった。
「はい」
「日本のどこ?東京?」
「そうです」
 正確にはぼくの家は東京から50キロほど離れた隣の県にあったが、説明に手間がかかるため、詳しく聞かれない限り「東京」と言うことにしていた。
 日本、東京と聞いて、ルビーの大きな目はさらに見開かれ、輝きを増した。パキスタンの人口にほぼ等しい数の人が住み、世界に名だたる工業製品を輸出する日本は、生まれてこの方国外に出たことのないルビーにとって憧れの地らしかった。
 東京の暮らし、日本の文化、そしてぼく自身に関する質問を矢継ぎ早に浴びせるルビー。人の輪は次第に大きくなり、店内の他の客を巻き込んで、ぼくの周囲にグルリと人垣ができていた。
 ぼくはルビーの質問に対し、ありのまま答えた。
 毎日1時間以上も満員電車に揺られ、くたくたになった体で日々残業を続けるサラリーマン。一流大学に入るために小学生の頃から塾に通い、携帯電話で友達とおしゃべりする子供たち。自分で話しながら、その日本の光景はひどく非現実的に思えた。
 ルビーはぼくの話を聞きながら、どのような映像を頭に浮かべたのだろうか。
「ニッポンは夢の国だ」
 ルビーは言った。ぼくは生ぬるいコーラを喉に流しながら続く言葉を待った。
「将来日本で働いてみたいんだ」
「なぜ日本なんだい?」
「アメリカは好きになれないし、この町で仕事をしてもお金がたまらないしな。それに・・・」
「何だい?」
「日本にはキレイな女性が多いから」
 冗談とも本気ともとれる口調でルビーは言い、恥ずかしさを打ち消すように大きな声で笑った。

 1泊日本円にして150円ほどの安宿に部屋を取ると、ぼくはその足で遺跡へと向かった。勇壮な古代文明の石造建築を期待していたぼくの目の前にあったのは、長年の風雨にさらされ、かろうじてその姿をとどめる歴史の残骸だった。規則的に並ぶ細い路地を歩きながら、ぼくはなぜか東京のことを考えていた。
 様々な文明の品々に囲まれ、無批判に便利さを追求する生活。それは確かに楽しいはずだった。最新の歌を聴き、話題の本のページを繰る。携帯のボタンを押せば、どこかでそれに友人が応えた。遊ぶ場所は限りなくあり、それが面倒なときはコンピューターの電源を入れると、その先に世界が広がった。
 それは確かに楽しいはず、だった。ところが今のぼくにはそう言い切れる自信がない。
 遠い国の戦争のニュースのあと、電柱から下りられなくなった猫の救出劇を、殊更大事件のように伝えるマスコミ。一杯のラーメンのために、1時間も行列に並ぶ人々。高級ブランドのバッグを肩にかけ、学校へ行く高校生。なぜぼくはそんな世界にいて、ひとかけらの疑問も感じることがなかったのだろう。

 その文明は日本の遥か西、インダス川から始まった。紀元前2300年にして上下水道を完備したモヘンジョダロの都市は、わずか600年でこの世から姿を消してしまう。
 この先朽ち果てていくだけの遺跡を前に、ぼくは東京という街の未来を考えていた。

アフガンの大地を越えて(アフガニスタン)