千年王国 (テヘラン)

 

 どこか遠くで鳥の声がしている。ぼくは大都市テヘランにいたはずだ。鳥の声など聞こえるはずがない。
 目を開ける前から分かっていた。ぼくは草原に横たわり、あたりには色とりどりの花が咲き乱れている。人間と動物たちが仲良く暮らし、そこには死や絶望もない。エホバの証人の小冊子にある、あの風景だ。千年王国、と彼らはそこを呼ぶ。

 初恋の人がエホバの証人の信者だった。律儀にYシャツのボタンを一番上までしめ、優しい笑みを絶やさなかった。いつも学校に早く来る彼に合わせて、ぼくも始業1時間前には学校に行っていた。
 彼がエホバの証人だと知ったのは、出会ってから間もない頃だった。
「何を読んでるの?」
辞書のような本を片手に、熱心にパンフレットを読んでいる彼にぼくは聞いた。
「あ、これ?"目ざめよ"っていうんだ。ものみの塔の雑誌だよ、はい」
そう言って彼から手渡された小冊子の表紙を見ると、『もうすぐこの世から死や病気がなくなる』と書いてあった。
「何これ?何かの宗教?」
「うん、エホバの証人っていうんだ。よかったらあげるよ」
そう言って彼はぼくにその小冊子をくれた。
 家に帰って読んではみたものの、内容が難しくてよく分からなかった。それでも彼に近づきたい一心で、ぼくは最後まで読み通した。
「これ読んだけど、難しくてあんまり分からなかった」
翌日ぼくが正直に言うと、
「最初はそんなもんだよ。よかったら今度の水曜日うちの会衆に来ない?」
「カイシュウ?」
「聖書の勉強会をやってるんだ。参加自由だからヒマだったら来て」
そう言って彼は王国会館という、集会所の場所を教えてくれた。

 もしかしたら彼もぼくの仲間なのかなと思うことが何度かあった。スポーツ万能で女子からの人気も高かったのに、彼はまるで興味がないようだった。ランチはいつも彼と一緒。「あんたたちホモなんじゃないの」と女子に冷やかされることもしばしばだった。
 そんな女子の間の評判を、内心嬉しく思っていた。ぼくの耳に入るということは、当然彼にもその噂が届いているはずだった。そんなことを意に介さないかのように見える彼は頼もしく、そしてぼくからの告白を密かに待っているようにも映った。
 誘われていながら一度も行っていなかった会衆に、ぼくも行ってみようかなと思い始めていた。それはエホバの証人に対する関心からというよりも、少しでも長く彼のそばにいたいという、淡い期待から起きた心境の変化だった。

 恋は盲目とは、こういうことを言うのかもしれない。その頃のぼくはエホバの証人が同性愛を忌避していることや、エイズを「神によって下された罰」と位置づけていることを知らなかった。会衆に行くか以前に、ぼくにはその資格がなかったのだ。彼のちょっとした好意を自分に都合のいいように考えていた自分が恥ずかしかった。
 そのことを知って以来ぼくは何となく彼を避けるようになり、再び8時半のチャイムをBGMに校門へダッシュする生活へと逆戻りした。

 そうだ、ぼくは千年王国へ行けないんだ。アラーからも見放されているはずだ。するとこの鳥の声は・・・
「気がついたみたいだね」
「えっ・・・」
ぼくが驚いたのはその声が英語でもペルシア語でもなく、懐かしい日本語だったからだ。
「2日間も眠っていたんだよ。A型肝炎。兆候に気が付かなかったの?」
「あの・・・」
「あっ、紹介遅れました。私の名前は前田。ずっと看病してたんだからな、感謝してくれよ」
前田さんはそう言って爽やかに笑った。
「ここはどこですか?」
「天国。さっきマザーテレサが廊下を歩いてるの見なかった?」
ぼくは頭が混乱していた。
「え、ええ」
「ハハハ、あれは似てるけどレシャーリっていうばあさん。うちの診療所を掃除してくれてるんだ」
「そうですか・・・」
そもそもぼくはマザーテレサの顔を知らなかった。
「君、本当にむちゃするなあ。もう少しで死ぬかもしれなかったんだよ」
「そうだったんですか」
「ま、いいや。希望すればいつでも退院できるから。また後で様子を見に来るね」
そう言って前田さんは白衣をはためかせ、慌しく病室を出て行った。
 近くのモスクからコーランを詠む声が、黄昏どきのテヘランの街に響いている。千年王国ではないこの地球のどこかでは、今日も誰かが戦争で傷つき、病気で命を落としているはずだった。
 この地球にはなすすべもなく神に祈る人がいる一方で、前田さんのように神なるものへ挑戦を挑んでいる人がいる。神を信じるか、人間を信じるか。ぼくは死や絶望と隣り合わせに生きながら、不完全な人間の力を信じたいと思った。
 人間であることに資格はいらない。そしていつか、死や病気に直面することもあるだろう。それは恐怖ではない。言ってみれば生命の要素の一つであり、人を生へと動機づける力だ。

 ぼくは神の子ではなく、最後まで人間として生きていこう。不完全なまま、時には絶望にさいなまれ、心のどこかで死を意識しながら。

二十一世紀旗手(イラン)