ぼくたちが生きた証に (トルコ)


 列車はトルコの国境を越え、イスタンブール目指して走る。
 途中の駅で止まるたびに、ホームでは出会いがあり、別れがあった。涙で顔をくしゃくしゃにする老人。車内からその光景を眺めるぼくには、老人が喜んでいるのか悲しんでいるのか分からない。帰郷する父を迎える子供たち。その顔にはこぼれんばかりの笑顔が溢れている。長いこと列車の到着を待ったのだろう。標高2000mの駅に集う人々の頬は赤く、子供たちの鼻下には鼻水が光っている。
 ぼくは暖房の効かない2等席の固い座席で寒さに身を縮めながら、ペンを持った右手に息を吹きかける。膝に置かれた便箋は、まだ白紙のままだ。

「いつ帰って来るの?」とナツミは聞いた。
「分からない。でもお金が尽きたら帰ってくるつもりだよ」
そこは新宿のとあるカフェ。ぼくはナツミを前に、旅の計画を話していた。
「呑気だよね。日本は今こんなに景気が悪くて、バイトだって見つけるのが難しいっていうのにさ」
「バイトならしてたよ」
「私が言ってるのはそういうことじゃないよ。もうちょっと自分の将来を真剣に考えた方がいいんじゃないの?」
 ナツミらしいストレートな言い方だったが、彼女が本当にぼくの将来を心配してくれていると知っていたので、何も言わず黙ってナツミの言葉に頷いた。
「本当に帰ってくるつもりなの?」
「え?」
「何かさ、ちょっと違うものを感じるんだよね」
「違うって?」
「うん、何かもう帰って来ないような・・・」
「帰ってくるよ。お金がなくなったら、そうするしかないだろ」
「そうだけどさ」
 小さな子供を連れた若い夫婦が、ウインドーの向こうを通り過ぎる。ぼくとナツミもいつかこんな風に、新宿の街を歩くことがあるのだろうかとぼくは思った。
「え、何?」
窓の外に気をとられていたぼくは、ナツミが言ったことを聞いていなかった。
「変なこと考えてないよね?」
「変なことって何だよ」
「その・・・死のうとか思ってないよね」
ぼくは一瞬ギクリとした。ナツミは昔から勘の鋭いところがあった。
「そんなこと考えるわけがないだろ。何言ってんだよ」ぼくは怒ったように言った。
「ごめん、でも何か違うものを感じたから」
「もういいよ、その話は。必ず帰ってくるから」

 出発の日、ナツミは空港まで見送りにきてくれた。終始無言で、ぼくが何を言ってもほとんど反応が返ってこなかった。
 別れ際にぼくが「じゃあ」と言うと、ナツミも一言「じゃあ」と言った。エスカレーターを下りた所で振り向くと、ナツミはまだそこに立っていた。ぼくが軽く右手をあげると、ナツミは両手をジーンズのポケットに入れたまま、コクリと頷いた。

 列車がゆっくりと動き出す。ぼくは手紙を書くのを諦め、紙をくしゃくしゃに丸めポケットにつっこんだ。
 長い時間をかけてぼくが書けたのはたった一行。そこには迷いの見える文字で、
「あのとき、一つだけ嘘をついた」とあった。

イスタンブールの風になる(トルコ、そして日本)